『嘉納治五郎~私の生涯と柔道~』

嘉納治五郎 著
定価1800円+税
日本図書センター (TEL:03-3947-9387)

横浜・山下公園に隣接する港に、永い役目を終えて停泊している日本郵船氷川丸。この船で海外に赴き、あるいは帰国の途についた多くの先達。その様々なドラマに思いを巡らし、中華街で舌鼓を打つ……。
1938年(昭和13)3月、嘉納治五郎は日本オリンピック委員主席代表として、79歳の老体に鞭打ってカイロ会議に出席した。
嘉納先生の一方ならぬ努力の結果、第12回オリンピック東京大会の開催がIOC総会で確認されたのである。重責を果たして帰途についた嘉納先生は、5月4日早朝、太平洋上氷川丸船内で肺炎のため急逝された。
しかし、嘉納先生の活躍によりオリンピック日本誘致に成功したものの、第二次世界大戦の勃発により幻の大会となってしまった。
その後、日本で初めて開催された東京オリンピック(1964年)で、柔道もまた初めてその舞台に登場したのである。関係者にとっては感慨深いものがあったであろう。
さて本書は、大滝忠夫編『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』(1972年、新人物往来社)を底本として新たに編纂されたものである。
嘉納治五郎は万延元年(1860)に生まれ、明治15年(1882)、23歳で講道館を創立しているが、柔術を学び始めた動機は、少年時代に虚弱な身体ゆえに学友から軽んじられていたことにあった。彼の少年時代は幕藩体制が崩壊し、柔術や剣術といった武術は、明治の新時代の大波に翻弄され、町道場は壊滅状態だった。彼は非力なものでも大力に勝てる柔術を学ぼうと奔走するが、道場は見つからず、家人も「学問以外は必要なし」と受け付けてくれなかった。
18歳で念願叶って天神真楊流の柔術を福田八之助に師事し、学び始めた。しかし、その道場は整骨治療所の待合室兼用で僅か九畳であった。
天神真楊流という流儀は、楊心流と真之神道流との二流を合わせたもので、磯又右衛門が開祖である。福田八之助はその直門で、幕府の講武所で教えていた人である。
この福田先生の指導は今とは大分違ったものだったという。
《或る時先生から或るわざでなげられた。自分は早速起きあがって、今の手はどうしてかけるのですときくと、「おいでなさい」といきなりなげ飛ばした。自分は屈せず立ち向かって、この手をどう足をどういたしますとしつこくきき質した。すると先生は「さあおいでなさい」といってまた投げ飛ばした。自分もまた同じことを三たびききかえした。今度は「なあにお前さん方がそんなことをきいてもわかるものか、ただ数さえかければ出来るようになる、さあおいでなさい」とまたまたなげつけた。こういうあんばいで、稽古はすべてからだに会得させたものだ》
このように何の説明もなく、ただ身体に教え込む教授法に、柔道の創始者嘉納治五郎も稽古を始めた頃は、身体が痛んで動けなかったという。それでも一日も休まず稽古を続けた。
明治12年に福田先生が歿した後、一時その道場を預かって稽古を続けていたが、まだ一本立ちでやりぬくだけの自信もなく、さらに一段の修行を積みたいという熱望のやむときがなかった。
その後、磯又右衛門の高弟、磯正智先生に師事して修行に励んだ。しかし、その師も明治14年に歿してしまった。そこで、さらに師とすべき人を求めて苦心したが、大学の友人の父、本山正翁に巡り合った。
この本山先生は幕府の講武所で起倒流柔術の教授方を勤め、達人といわれていたので流儀は違うが教えを乞うたのである。しかし、この人は形の名人で、乱取りはさほど得意ではなく、またあまり教える気がなかった。そこで本山先生からやはり講武所の教授方であった飯久保恒年先生を紹介され、この先生について起倒流を学んだ。
最初に学んだ天神真楊流では咽喉をしめたり、逆をとったり、押し伏せるということを主にしている。投げは巴投げ、足払い、腰投げなどをやったが、起倒流とは掛け方などに違いがあることを発見したという。
飯久保先生は当時50歳以上に達していたが、乱取りも相当よく出来たので熱心に稽古をした。また形も天神真楊流のそれとは主眼とする所を異にしていた。ここで本気で新しい研究に没頭し、真剣に技を錬った。
二流を合わせ学んだところから、
《柔術は一流のみでは全きものではない、二流のみならず、なおその他の流儀にも及ぼし、各その長を採り、武術の目的を達するのみならず、進んで知・徳・体三育に通達することは工夫次第で、柔術はもっともよい仕方であると考えた。かかる貴重なものは、ただ自ら私すべきものではなく、弘くおおいに人に伝え、国民にこの鴻益を分かち与うべきものであると考うるに至った》
当時、世間では武術などほとんど省みられず、極端にすたれていた。かの有名な剣客榊原健吉でさえ、撃剣仕合を興行し、木戸銭をおさめて糊口の資となすほどの時代だった。
そこで嘉納先生は「柔道」という新時代に相応しい名称でひろく世に行なおうと決心し、明治15年、講道館を創立したのである。
ここまで嘉納治五郎の講道館柔道創設までの足跡を武術的側面から解説してきたが、嘉納先生の真骨頂は「精力善用、自他共栄」の思想の中にあると私は思っている。残念ながら本書ではその端緒しか書かれていない。また別の機会に紹介したいと思う。最後に編者大滝忠夫の「本書を世に送ることば」の中から以下の言葉を紹介して本稿を終える。
《嘉納治五郎は、日本古来の柔術を取り上げ、これを見事に現代化し、日本人教養の道としてその教育体系を確立し、講道館を興してこれを教え始めた。―(中略)―嘉納治五郎先生の柔術から柔道への展開、いわゆる、武道の現代化は、日本人の教養の上に、さらには、世界の人々の教養の立場から、まさに一大達識であったと言わなければならない》

『ワールド空手』2000年8月号

 

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