『武田惣角と大東流合気柔術』

合気ニュース編集部・編
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万延元年(1860)に二人の偉大な武術家が誕生している。一人は柔道の創始者・嘉納治五郎、もう一人は大東流合気柔術中興の祖・武田惣角である。
嘉納治五郎は現在の兵庫県に生まれ、11歳で東京に移り、東京帝国大学で学び、教育者として柔道を弘ひろく国内外に伝えた。一方武田惣角は会津に生まれ、学問を好まず、幼少の頃より大東流、相撲、槍術、剣術、棒術、鎖鎌、薙刀など多くの武芸を学んだ後、大東流合気柔術を限られた人にのみ伝授した。
武田惣角と大東流合気柔術は、十数年前までは今日ほど一般には知られていなかった。その理由の一端は徹底した秘密主義にあった。その辺りの事情をスタンレー・プラニンは、以下のように記している。
《惣角にとり、苦労して修得した武術は門外不出のものであり、また高い報酬の払える社会的地位のある者のみ伝授されるべきものであった》
明治の新時代に、知・徳・体三育の一環として柔道を弘く普及させた嘉納治五郎とは好対照に、武田惣角は伝統的な教授法で大東流を伝えたのである。
本書の構成は「大東流界第一線の師範方が語る」とサブタイトルにあるように、大東流合気武術宗範・佐川幸義、堀川幸道夫人・堀川ちゑこ、大東流合気柔術幸道会総本部長・井上佑助、大東流合気柔術免許皆伝・久琢磨、大東流合気武道宗家代理・近藤勝之、大東流合気柔術琢磨会総務長・森恕、大東流合気柔術六方会宗師・岡本正剛、大東流合気武道宗家・武田時宗の大東流を代表する継承者にインタビューを試み、大東流と武田惣角の全体像に迫っている。
また、巻頭にスタンレー・プラニンが研究論文「武田惣角の足跡を辿る」を記し、巻末に「武田惣角年譜」と「大東流合気柔術道場/指導者一覧」を掲載している。
大東流合気柔術六方会宗師・岡本正剛師範の技を見るかぎり、大東流合気柔術は骨董品的な古武術ではなく、極めて合理的で実戦的な武術だと言える。しかし今日、柔道や空手のように普及していない最大の原因は、惣角から受け継いだ門外不出の教えにあった。その伝統も岡本正剛師範が1985年に出版した技術書『大東流合気柔術』(スポーツライフ社/絶版。現在、気天舎より発行)によって改変されつつある。
全ての体術の技を言葉のみで表現するのは無謀である。したがって、ここでは武田惣角の足跡を辿ることによって、惣角と大東流合気柔術を紹介しよう。
武田惣角は1860年10月10日、会津坂下町御池の武田屋敷に四人兄弟の次男として生まれた。8歳のとき、戊辰戦争が起こり、会津城および城下の町のほとんどが壊滅した。このとき父・惣吉は西郷頼母の下で会津若松戦争を経験した。
惣角は幼少の頃より槍術、剣術、相撲、大東流を父から学んだ。13歳で東京の直新影流剣術家・榊原鍵吉の内弟子となり、剣、棒、槍、半弓、鎖鎌、薙刀の修行を約二年半行なった。
1876年9月、神職にあった兄・惣勝の突然の死により、兄の後を継ぐべく保科近悳(西郷頼母)の下で神職見習いをする。しかし、わずか数週間で辞め、九州の西郷隆盛の軍に入ることを決意。九州行きの途中、師・榊原鍵吉の紹介で大阪の鏡新明知流宗家・桃井春蔵に直々の指導を受ける。1877年初め、桃井道場同門の同志とともに西郷軍に参加しようと九州に向かうが、厳しい役人の警備の中を潜入出来ず帰還した。
同年9月、西南戦争の後、惣角は武者修行のため九州へと旅立つ。しかし、武器の使用は警察の取り締まりが厳しく、ほとんどの剣術道場は休業状態であった。行き場を失った惣角は軽業一座に加わり、各地を興行巡回した。その途中で沖縄空手の名手に出会う。その後、沖縄諸島を回って空手の達人を求めて試合をして歩き、1879年、九州に戻った。剣道はその頃には復活しており、九州各地で武者修行した。
1882年頃、福島で道路工事の人夫との喧嘩で大勢に怪我を負わせ、警察に一ヵ月近くも拘留されている。
1888年に会津でコンという女性と結婚し、二人の子供をもうけた。
1898年から四十五年間、惣角自身が記した英名録と謝礼録の二組の記録帳が残されている。それは二千ページ以上にもおよび、何千人にものぼる弟子たちの名前、住所、稽古日、謝礼額、その他のことが記入されている。
英名録によると、1898年から1910年末までの惣角の活動の中心地は東北地方であり、宮城県、山形県、岩手県、福島県、秋田県での長期間滞在の記録が多数ある。その後の二十年間を北海道、特に北部地方を中心に教授しており、後に合気道開祖・植芝盛平との関係から白滝村に家を持つようになった。そして死ぬまで本籍は北海道にあった。
惣角の重要な弟子や教授代理允可いんか者には北海道出身者が多く、当然彼らは直接教えを受ける機会も多かった。そのような弟子に、吉田幸太郎、堀川泰宗、堀川幸道、植芝盛平、佐川幸義、松田敏美などの名高い人たちがいた。
北海道に滞在した初期に惣角は再婚している。新しい妻・スエは惣角より三十歳ほど年下で七人の子をもうけており、そのうちの一人が現宗家・時宗である。
1921年から22年にかけては東北および京都地方で活動していた。
そのうちの五ヵ月を京都綾部、大本教の拠点にある植芝塾で教授している。1936年から39年にかけて、大阪の朝日新聞道場で大東流を教授。
晩年の惣角は、そのほとんどを北海道に戻って過ごした。高齢にもかかわらず死ぬまで大東流の教授を続けた。1943年4月25日、青森で死去。享年83歳。
本書の大部分は各師範の生の声を収録しているが、今回は紹介を割愛したので読者自身が直接確認することをお薦めしたい。

『ワールド空手』2000年9月号

 

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