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書評・晴練雨読―空手修行者のための読書指南―第3回―
書評・晴練雨読  文/山岡 武彦
『日本剣客伝・三〜柳生十兵衛・堀部安兵衛〜』
日本剣客伝・三

山岡荘八/吉行淳之介 著
定価505円+税
朝日新聞社 (TEL:03-3545-0131)



 『日本剣客伝』は全五巻で朝日文庫の一シリーズとして出版されている。『週間朝日』に掲載されたもので、塚原卜伝・上泉伊勢守、宮本武蔵・小野次郎右衛門、柳生十兵衛・堀部安兵衛、針谷夕雲・高柳又四郎、千葉周作・沖田総司という剣客を海音寺潮五郎など10人の著名な作家がその一人一人を描いている。

 『柳生十兵衛』山岡荘八・著
 柳生石舟斎宗巌(むねとし)の孫として生まれた十兵衛三巌(みつよし)の生涯を、山岡荘八は家康から始まる徳川幕府の泰平維持の基礎を固める人柱としての観点から描いている。
 上泉伊勢守秀綱(かみいずみいせのかみひでつな)の新陰流に、祖父石舟斎の無刀取りという心技両面の精緻が加わり、それが父宗矩(むねのり)に至って征夷大将軍の治国の兵法、「御流儀」として内容を整えてきたという柳生新陰流。
 父の宗矩が嫡子十兵衛に期待したのは石舟斎から宗矩、宗矩から十兵衛という、柳生新陰流兵法の継承だけではなかった。
 戦国の世が終わり、平和な江戸時代の土台を完成させるために生涯をかけた宗矩の嫡子として生まれた十兵衛の悲劇は、まさにこの出自にあったのである。
 《武という文字は(ほこ)(戦)を止めると書き、平和を保つために武はあるのだと、そこまでは大抵わかっていながら、生兵法(なまびょうほう)としての兇器は当時の巷に氾濫していた。
 石舟斎が「無刀取り」の工夫を凝らしたうら(・・)にもこの嘆きがあった》
 宗矩は「どうすれば、兵法がそのまま、人間の教養に変わるであろうか?」と、四十から五十へかけて、新しい世作りの夢に憑かれていたという。
 《「平和が欲しい!」
 それは天下を掌握し得た徳川家だけの願望ではない。戦国以来の庶民の大多数の(ねが)いであり、その願望の流れと共に動いたところに徳川幕府成立の要因はあった》
 この“希い”は戦後の「平和」が当たり前な日本に生まれ育った私たちにはすぐにはピンとこないが、戦乱の世に苦しんだ人々のことを想えば容易に想像がつくはずだ。
 《当時、天下屈指の武芸家、兵法家は決して柳生一族だけではない。技法だけを問題にすれば、よりすぐれた武芸者があったかも知れない。そして、それ等の「剣客」たちが、兵法の専門家として諸大名に召抱えられる場合の封禄は、大抵二、三百石……最上、五百石が相場だった。
 その中から、何故に柳生新陰流だけが、一万二千五百石という大禄を給されて、諸侯の列にまで加えられたか? それを先ず明らかにしなければ、十兵衛三巌の数奇な生涯の謎は解けない。いや、十兵衛だけではない、十兵衛の異母弟刑部少輔友矩(ぎょうぶしょうゆうとものり)もまた、父宗矩の願望の犠牲になって二十七歳の若さで世を去っているし、その後、十兵衛のあとは飛騨守宗冬に継がれたとは云え、間もなく血縁の世襲は断たれて、大名としての江戸の柳生家は代々人物本位の養子相続になっていった。
 云わば宗矩の悲願が子々孫々の安穏な世襲を封じ去ったのだと云ってもよく、その意味では代々将軍家のお手直しという兵法の師にあげられていながら、徳川家と柳生家の関係は、世のつねの幸福さからは絶縁されて、法を継ぐ禅寺院的なきびしいものになっていった。
 そうしなければ庶民の上に君臨する権力者、将軍家の指導は出来ないと考えたところに、柳生一族の……とりわけ宗矩の(すさ)まじい士魂と良心があり、十兵衛三巌の生涯は、その第一の犠牲の飛沫(ひまつ)を真向から浴びて立つことになった……と、私は解している》
 十兵衛の独眼伝説は有名だが、講談や尾張の柳生家の口伝(くでん)で伝えられているこの説を山岡荘八は剣の技術面から否定している。この口伝について、以下のように説明している。
 《少年の頃「燕飛」の稽古で、その第四の「月影」の打太刀(うちだち)を宗矩から習うとき、父の使太刀(しだち)の「月影の打ち」の飛雷(いなずま)を打ちおろす木太刀の太刀先が、七郎(十兵衛)の上段入り身のふせぎの太刀の(うえ)を越して右眼に入ったため、というのである。
 これも私は信じない。何よりも、新陰流は、上泉伊勢守秀綱以来、稽古の時には(とう)(ふくろしない)を用いて木太刀を使っていない。
 木太刀の試合は、そのまま生命にかかわるからだ。一々生命にかかわるのでは技法の練磨に欠けることになる。韜は割竹をなめし皮でつつんで(つか)はつけず、その柔軟さにおいて現代の竹刀(しない)以上だ。
 それに、信頼出来る資料や記録に、十兵衛が独眼であったという記録は一つもない。肖像として残っているものにも、ちゃんと両眼は描かれている。
 したがってこの独眼伝説は、狷介不覊(けんかいふき)とか強剛とか、梟雄(きょうゆう)とか云われている性格同様、彼の行動の謎に附加された後人の創作であろうと私は思う。
 或いは一個独得の眼識をもった人物という意味の記述が「独眼―」という連想になって誤られたのかも知れない》
 七郎(十兵衛)は数え年十歳の時、将軍秀忠の謁見を受けている。それから二年後に母を亡くし、その時にある異常な逸話を残している。
 その解決に困り果てた父宗矩が考えた策が「鈴虫」だった。そしてこの事件で七郎の守役として付けられたのが二十歳の服部丑之助、後の荒木又右衛門である。
 十三歳から七郎は竹千代(後の三代将軍家光)の側近として登城することになる。その後、家光のある事件を契機に二十歳の十兵衛は「発狂」を理由に江戸城を出、その後十二年間、ぷっつりと消息を絶つこととなる……。
 大山倍達総裁が愛した講談の世界であまりにも有名な剣豪柳生十兵衛の生涯は、武と人間の生を考える上で、非常に興味深いものがある。そして、それぞれを文豪が描いたこの剣客シリーズ、ご一読をお薦めする。

『ワールド空手』2000年1月号

バックナンバー

(1)生命知としての場の論理〜柳生新陰流に見る共創の理〜
(2)レジェンド〜オランダ格闘家列伝〜
(3)日本剣客伝・三〜柳生十兵衛・堀部安兵衛〜
(4)合葬(がっそう)
(5)高野佐三郎 剣道遺稿集
(6)板垣恵介の格闘士烈伝
(7)武道のススメ
(8)武と知の新しい地平―体系的武道学研究をめざして―
(9)新訂孫子
(10)嘉納治五郎〜私の生涯と柔道〜
(11)武田惣角と大東流合気柔術
(12)武士道教育総論

(2)レジェンド このページの
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(4)合葬(がっそう)

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