『武士道教育総論』

風間 健・著
定価2,000円+税
壮神社 (TEL:048-287-1588)
 

《文と武について、世間では大きな考えちがいをしている。世間では歌を詠み詩をつくり、文筆が達者で気立てがやさしく優雅なのを文といい、武術、兵法を習い知って、気立ては勇猛でいかついのを武といいならわしている。似たことではあるが、似ていない。元来、文武というのは、一つの徳であって別々のものではない。天地の造物は一つの気であるのに陰陽の別があるように、人の感性は一つの徳で、その中に文武の区別があるのだから、武のない文は真実の文ではない。文を備えていない武も真実の武ではない。(中略)
だから、戈と止めるという二つの字をあわせて武の字をつくったのである。文道をおこなうための武道なので、武道の根は文である。武道の威力をもって治める文道だから、文道の根は武である。そのほかあらゆる面において、文武の二つは切り離すことができない。(後略)》
これは江戸初期に活躍し、陽明学派の祖で近江聖人と呼ばれた中江藤樹の『文武問答』の一節を現代語訳したものである。
文武両道の必然性を説いたものだが、これに関連して思い起されるのが、大山倍達極真会館総裁がかつて言われた言葉がある。
それは「力なき正義」と「正義なき力」についてである。総裁は正義を貫くため、「力」を身につける必要性を痛感し、修行に励んだ。しかし、その過程で「正義」のない「力」は蛮勇に過ぎないということを悟ったのである。
盧山初雄最高顧問もまた、その著書の中で《強さと優しさを持って世の中を歩くこと、これが本来の意味での武道だと思う》(『武道のススメ』)と語っている。
今回紹介するこの書は、江戸と明治時代に活躍した先哲者、山鹿素行、中江藤樹、熊沢蕃山、貝原益軒、大道寺友山、井澤蟠龍子、力丸東山、斎藤拙堂、徳川斉昭、吉田松陰、上杉鷹山、山岡鉄舟、植村正久、新渡戸稲造らの武士道論を、その原文と現代語訳を併記し、現代の教育に生かそうという試みで記されたものである。
著者は風間健(道隆)武心道道主。NHK朝の連続ドラマ「私の青空」に出演している筒井道隆の父親としても知られている風間道主は、少林寺拳法や空手を学び、キックボクシングなどのプロ格闘技でも活躍した後、現在武心道を提唱して斯界で意欲的に活動している。
さて、本書で最も興味をそそられたのが山鹿素行の武士道論である。
《江戸時代、武士道を政治哲学にまで高めて武士の教育をしたのが山鹿素行(1622~1685)である。
山鹿素行は、九歳で林羅山の学問所に入ったが、すでに四書五経を読むことができた。そして十五歳の時には、師の許しをえて『大学』の講義を行なっている。(中略)
兵学は秘して見せずという性格上、一般の学問のようには普及しなかったが、素行の兵学は各藩の兵学者にうけつがれ、幕末には幕府講武所師範にまで発展している。大道寺友山も弟子であるが、長州では吉田重矩から子孫の吉田松陰、乃木希典へとつながっている。幕府講武所師範窪田清音の教えをうけた徳島の兵学者若山壮吉の又弟子にあたるのが勝海舟、板垣退助、坂本竜馬、中岡慎太郎、土方久元らの幕末・明治維新の英傑たちである。元禄期以前、赤穂藩でも山鹿流兵法の免許をうけた者が数名おり、その中の一人が大石内蔵助である。赤穂義士の討ち入りから引き揚げまでの作法も山鹿流兵法によるものであった》
山鹿素行は、十六歳から著述を始め、六十四歳で没するまでの間に、おびただしい数の書物を著している。孔子の教えを聖学とよび、学問は実学でなければならないと説いている。
そのうちの『山鹿語録』四十五巻中の『士道』篇に記されていることが興味深く、以下に現代語訳で紹介する。
《ますらおは、ただ今日一日の用を全うすることを極致とすべきである。一日を積んで一月になり、一月を積んで一年になり、一年を積んで十年とする。十年がかさなって百年になる。一日はなお遠く一時にあり、一時はなお長く一刻にあり、一刻もなお余りある一分にある。このことからいえば、千万年のつとめも一分より出て、一日のうちに究まるものである。だから一分の時間をゆるがせにすれば、ついに一日に至り、終わりには、一生の怠りともなる。天地の生々は一分の間もとどまることがなく、人間の血気呼吸も一分の間も止まることがない。だから、その一瞬を大切に生きるべきである》
《その志が正しい道に志すというものでなければ、まことの道に到達することはできない。だからこそ道に志すというのである。世馴れして物知り顔をする連中は、自己流の判断で道を定めて、そのほかの別の道はないと自分の意見にこだわると、まことの道から遠ざかって、ついには大道に入ることができない。武士の職分を知ったといっても、道に志すところがなく、また、知があっても正しい行ないが伴うのでなければ、万全とはいえない。これも最も詳しく究明しなければならないことである》
山鹿素行は、士の職分を自覚し、道につとめ励むことにより、農工商三民の師表となると言っている。つまり、士の道は人間の道ということである。また礼節を重んじ、主君への絶対忠節を説いている。
当時の封建制度の中での思想ゆえ、忠孝絶対視の感はいなめないが、その部分を除けば、現代にも通じる教えである。
山鹿素行について更に詳しく知るには、佐佐木杜太郎著『武士道は死んだか―山鹿素行武士道哲学の解説』(壮神社)をお薦めする。
読者諸兄はこのような先達の知を現代に生かし、文武を通じて己を磨き、人間の道を歩んで頂きたい。
最後に大山総裁のこの言葉で本稿を終える。
《千日をもって初心とし、万日をもって極めとす》

『ワールド空手』2000年10月号

 

 

カテゴリー: 書評・晴練雨読 パーマリンク