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	<title>気天舎［KITENSHA Publications,Ltd.］</title>
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	<description>武道・格闘技の専門出版社</description>
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		<title>『生涯の空手道 -永遠なる武道- 』</title>
		<link>http://www.kitensha.co.jp/book/%e3%80%8e%e7%94%9f%e6%b6%af%e3%81%ae%e7%a9%ba%e6%89%8b%e9%81%93%e3%80%8f/</link>
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		<pubDate>Thu, 12 Jan 2012 18:15:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[書籍]]></category>
		<category><![CDATA[極真空手]]></category>

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		<description><![CDATA[極極真空手の盧山初雄師範が、【第一部】で大山道場入門から修行・大会出場を経て支部道場開設までの出来事と心の軌跡を描き、【第二部】で三人の師（大山倍 達、澤井健一、中村日出夫）の教えと思い出を己の修行体験に基づいて紹介。【第三部】で空手道の社会的使命と極真精神を説き、【第四部】で新たに設立した 極真館への想いと生涯を空手道に生きる決意、「修業心得」を披瀝した自伝的メッセージ！ 著　　者 盧山 初雄 著 定　　価 2,835円（税込） 判型 ・頁数 四六判上製・368頁 概　　要 大山道場入門から現在までの自伝 発 売 日 2011年11月25日 ＩＳＢＮ 978-4-434-15523-9]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/生涯の空手道IMG2.jpg"><img class="alignleft size-medium wp-image-453" title="生涯の空手道IMG" src="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/生涯の空手道IMG2-213x300.jpg" alt="" width="213" height="300" /></a></p>
<p>極極真空手の盧山初雄師範が、【第一部】で大山道場入門から修行・大会出場を経て支部道場開設までの出来事と心の軌跡を描き、【第二部】で三人の師（大山倍 達、澤井健一、中村日出夫）の教えと思い出を己の修行体験に基づいて紹介。【第三部】で空手道の社会的使命と極真精神を説き、【第四部】で新たに設立した 極真館への想いと生涯を空手道に生きる決意、「修業心得」を披瀝した自伝的メッセージ！</p>
<p><span id="more-87"></span></p>
<table width="28%">
<tbody>
<tr>
<td width="19%">著　　者</td>
<td width="5%"><img src="http://www.kitensha.co.jp/img/t_total.gif" border="0" alt="" width="14" height="14" /></td>
<td width="76%">盧山 初雄 著</td>
</tr>
<tr>
<td width="19%">定　　価</td>
<td width="5%"><img src="http://www.kitensha.co.jp/img/t_total.gif" border="0" alt="" width="14" height="14" /></td>
<td width="76%">2,835円（税込）</td>
</tr>
<tr>
<td width="19%">判型 ・頁数</td>
<td width="5%"><img src="http://www.kitensha.co.jp/img/t_total.gif" border="0" alt="" width="14" height="14" /></td>
<td width="76%">四六判上製・368頁</td>
</tr>
<tr>
<td>概　　要</td>
<td><img src="http://www.kitensha.co.jp/img/t_total.gif" border="0" alt="" width="14" height="14" /></td>
<td>大山道場入門から現在までの自伝</td>
</tr>
<tr>
<td>発 売 日</td>
<td><img src="http://www.kitensha.co.jp/img/t_total.gif" border="0" alt="" width="14" height="14" /></td>
<td>2011年11月25日</td>
</tr>
<tr>
<td>ＩＳＢＮ</td>
<td><img src="http://www.kitensha.co.jp/img/t_total.gif" border="0" alt="" width="14" height="14" /></td>
<td>978-4-434-15523-9</td>
</tr>
</tbody>
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		<item>
		<title>一瞬の夏</title>
		<link>http://www.kitensha.co.jp/essey/%e4%b8%80%e7%9e%ac%e3%81%ae%e5%a4%8f/</link>
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		<pubDate>Sat, 16 Jul 2011 07:18:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ＆推薦本]]></category>

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		<description><![CDATA[沢木耕太郎著 文庫版：定価＝上巻540円／下巻580円 発行＝新潮社 TEL:03-3266-5111 一度挫折したボクサー：カシアス内藤の再起に夢を託し、東洋タイトル戦をめざした一年間を描いた、男たち（元チャンピオン、老トレーナー：エディー・タウンゼント、若きカメラマン、そして「私」）のドラマ。 行為者（ボクサー、トレーナー）を肌で感じ、自らもまた行為者（プロモーター）として男たちの「夢」（人生の闘い）をおったノンフィクション『一瞬の夏』は、沢木耕太郎の息遣いまでもが感じられ、格闘技ファンのみならず全ての人を魅了する最高傑作だ。 『バトルスピン』1992年7月号 &#160;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table cellspacing="12" cellpadding="1" width="90%">
<tbody>
<tr>
<td colspan="3"><span style="color: #0c0471;"><a href="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E08_thumb.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-408" title="E08_thumb" src="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E08_thumb.jpg" alt="" width="75" height="106" /></a>沢木耕太郎著<br />
文庫版：定価＝上巻540円／下巻580円<br />
発行＝<a href="http://www.shinchosha.co.jp/" target="_blank">新潮社</a><br />
TEL:03-3266-5111</span></p>
<p>一度挫折したボクサー：カシアス内藤の再起に夢を託し、東洋タイトル戦をめざした一年間を描いた、男たち（元チャンピオン、老トレーナー：エディー・タウンゼント、若きカメラマン、そして「私」）のドラマ。<span id="more-407"></span><br />
行為者（ボクサー、トレーナー）を肌で感じ、自らもまた行為者（プロモーター）として男たちの「夢」（人生の闘い）をおったノンフィクション『一瞬の夏』は、沢木耕太郎の息遣いまでもが感じられ、格闘技ファンのみならず全ての人を魅了する最高傑作だ。</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="right">『バトルスピン』1992年7月号</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>実戦中国拳法・太気拳</title>
		<link>http://www.kitensha.co.jp/essey/%e5%ae%9f%e6%88%a6%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e6%8b%b3%e6%b3%95%e3%83%bb%e5%a4%aa%e6%b0%97%e6%8b%b3/</link>
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		<pubDate>Sat, 16 Jul 2011 07:17:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ＆推薦本]]></category>

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		<description><![CDATA[澤井健一著 （現在品切れ） 発行＝日貿出版社 TEL:03-3295-8411 「気」って何だろうか？　かつて「触れずに人を飛ばす気のパワー」などと大々的にマスコミでもてはやされていたことをご記憶の方も多いと思う。強さに憧れる男にとってこんな魅力的なことはないだろう。しかし、汗を流さず強くなろうなんて虫が良すぎる。何事においても、その人の持っている才能と努力なしには成し得ないものだということは自明の理。 では「気」は存在しないのだろうか？　その答えを出しているのがこの技術書『太気拳』だ。 太気拳（たいきけん）という武術は故澤井健一先生が創始したものだが、そのルーツは中国拳法の形意拳にある。形意拳を中国全土に知らしめたのが郭雲深という達人だ。この郭雲深の優れた弟子の中に王向齋という実力者がいた。王向齋は当時の中国で「国手」と謳われるほどの達人だった。彼は「這（はい）」という独特の練習法を考案し、「大成拳（意拳）」を創始した。その大成拳を中国で学び、師・王向齋の許しを得て始めたのがこの太気拳だ。 中国拳法というと実戦空手を学ぶ人々にとっては、格闘技オタクの遊びと受け止められているが、日本に流布されている多くの中国拳法はその域を出ないのが現状だ。しかし、この太気拳は違う。これほど合理的な拳法は他にないと言っても過言ではない。生前の澤井先生を知る私にとっては、その技術と人間性は永遠の憧れなのだ。 『バトルスピン』1992年7月号 &#160;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table cellspacing="12" cellpadding="1" width="90%">
<tbody>
<tr>
<td colspan="3"><span style="color: #0c0471;"><a href="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E07_thumb.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-405" title="E07_thumb" src="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E07_thumb.jpg" alt="" width="75" height="105" /></a>澤井健一著<br />
（現在品切れ）<br />
発行＝<a href="http://www.nichibou.co.jp/" target="_blank">日貿出版社</a><br />
TEL:03-3295-8411</span></p>
<p>「気」って何だろうか？　かつて「触れずに人を飛ばす気のパワー」などと大々的にマスコミでもてはやされていたことをご記憶の方も多いと思う。強さに憧れる男にとってこんな魅力的なことはないだろう。しかし、汗を流さず強くなろうなんて虫が良すぎる。何事においても、その人の持っている才能と努力なしには成し得ないものだということは自明の理。<br />
では「気」は存在しないのだろうか？　その答えを出しているのがこの技術書『太気拳』だ。<span id="more-404"></span><br />
太気拳（たいきけん）という武術は故澤井健一先生が創始したものだが、そのルーツは中国拳法の形意拳にある。形意拳を中国全土に知らしめたのが郭雲深という達人だ。この郭雲深の優れた弟子の中に王向齋という実力者がいた。王向齋は当時の中国で「国手」と謳われるほどの達人だった。彼は「這（はい）」という独特の練習法を考案し、「大成拳（意拳）」を創始した。その大成拳を中国で学び、師・王向齋の許しを得て始めたのがこの太気拳だ。<br />
中国拳法というと実戦空手を学ぶ人々にとっては、格闘技オタクの遊びと受け止められているが、日本に流布されている多くの中国拳法はその域を出ないのが現状だ。しかし、この太気拳は違う。これほど合理的な拳法は他にないと言っても過言ではない。生前の澤井先生を知る私にとっては、その技術と人間性は永遠の憧れなのだ。</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="right">『バトルスピン』1992年7月号</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3">
<hr />
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>肥田式簡易強健術</title>
		<link>http://www.kitensha.co.jp/essey/%e8%82%a5%e7%94%b0%e5%bc%8f%e7%b0%a1%e6%98%93%e5%bc%b7%e5%81%a5%e8%a1%93/</link>
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		<pubDate>Sat, 16 Jul 2011 07:16:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ＆推薦本]]></category>

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		<description><![CDATA[吉田信恭監修／肥田式強健術研究会編 定価＝1,260円（税込） 発行＝壮神社 TEL:048-287-1588 君は肥田春充を知っているか？　彼は幼少の頃より病弱だった。しかし18歳の時に発奮、心身の根本的改造を志し、古今東西の健康法を研究・実践した。その結果、独自の鍛練法を創案し、自ら強大な心身を造り上げた。 大正２年、『心身強健術』が出版されるやいなや数分ででき効果絶大のところから、その名声は特に高まり、官庁・陸海軍・学校・銀行・その他の会社などから招聘され全国に広まった。 その肥田式強健術のエッセンスをまとめたのが本書だ。内容については本書の前書きに要約されているのでそれを以下に記す。 「肥田式強健術は、肥田春充が広範な知識に基づいて、自ら鍛練を重ねた結果、創始されたトータルな人間改造法である。 中心力（腰と腹の力）を基礎として、呼吸を調節して精神を定め、注意力を集中して個々別々の筋肉に緊張を与えるよう、合理的に構成されている。そのため、短時間で最大の効果をあげることができる。 自分の体の物理的中心（正中心）を体得し、そこに全心全力を傾けて精神と肉体の合一をはかる―これこそ強健術練修の根本原則である。「強健術」とは、一般に行われているような健康法や武道的なものではなく、いわば健康を超えた、完全な人間形成をめざすものである。 正中心が定まり、中心生命力を獲得することができれば、不自然や不合理のない、自由闊達な生命力にあふれ、精神は醇化される。（中略） 強健術の練修を行っていると、気力が充実して体力も向上し、悩みや苦しみをのりこえてゆく勇気がわいてくる。そして言葉と行動が一致する人間へと成長していける。 本書に収めたのは、肥田式強健術の一部であるが、これを会得して活用すれば、日常生活での中心練修法として充分である。現代人の多くは、医者に行くほどではないが……といった半健康状態である。そんな人に、男性女性を問わず、強健術をおすすめしたい。この書は、新しい世界への旅立ちの書となることだろう」 『バトルスピン』1992年8月号 &#160;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table cellspacing="12" cellpadding="1" width="90%">
<tbody>
<tr>
<td colspan="3"><span style="color: #0c0471;"><a href="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E06_thumb.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-402" title="E06_thumb" src="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E06_thumb.jpg" alt="" width="75" height="112" /></a>吉田信恭監修／肥田式強健術研究会編<br />
定価＝1,260円（税込）<br />
発行＝<a href="http://www.budoshop.co.jp/Sojinshatoppage.html" target="_blank">壮神社</a><br />
TEL:048-287-1588</span></p>
<p>君は肥田春充を知っているか？　彼は幼少の頃より病弱だった。しかし18歳の時に発奮、心身の根本的改造を志し、古今東西の健康法を研究・実践した。その結果、独自の鍛練法を創案し、自ら強大な心身を造り上げた。<br />
大正２年、『心身強健術』が出版されるやいなや数分ででき効果絶大のところから、その名声は特に高まり、官庁・陸海軍・学校・銀行・その他の会社などから招聘され全国に広まった。<span id="more-401"></span><br />
その肥田式強健術のエッセンスをまとめたのが本書だ。内容については本書の前書きに要約されているのでそれを以下に記す。<br />
「肥田式強健術は、肥田春充が広範な知識に基づいて、自ら鍛練を重ねた結果、創始されたトータルな人間改造法である。<br />
中心力（腰と腹の力）を基礎として、呼吸を調節して精神を定め、注意力を集中して個々別々の筋肉に緊張を与えるよう、合理的に構成されている。そのため、短時間で最大の効果をあげることができる。<br />
自分の体の物理的中心（正中心）を体得し、そこに全心全力を傾けて精神と肉体の合一をはかる―これこそ強健術練修の根本原則である。「強健術」とは、一般に行われているような健康法や武道的なものではなく、いわば健康を超えた、完全な人間形成をめざすものである。<br />
正中心が定まり、中心生命力を獲得することができれば、不自然や不合理のない、自由闊達な生命力にあふれ、精神は醇化される。（中略）<br />
強健術の練修を行っていると、気力が充実して体力も向上し、悩みや苦しみをのりこえてゆく勇気がわいてくる。そして言葉と行動が一致する人間へと成長していける。<br />
本書に収めたのは、肥田式強健術の一部であるが、これを会得して活用すれば、日常生活での中心練修法として充分である。現代人の多くは、医者に行くほどではないが……といった半健康状態である。そんな人に、男性女性を問わず、強健術をおすすめしたい。この書は、新しい世界への旅立ちの書となることだろう」</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="right">『バトルスピン』1992年8月号</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		<title>バイタル柔道　[投技編／寝技編]</title>
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		<pubDate>Sat, 16 Jul 2011 07:15:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ＆推薦本]]></category>

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		<description><![CDATA[岡野功・佐藤哲也著 定価各2,940円（税込） 発行＝日貿出版社 TEL:03-3295-8411 バルセロナ・オリンピックのジュウドウをイライラしながらＴＶ観戦していた私は、ふっと岡野功氏を思い浮かべた。彼は1964年の東京オリンピックで初めて実現した柔道の中量級金メダリストだ（このときは軽・中・重・無差別級の四階級で争われ、無差別級でオランダのへーシンクに敗れた日本柔道。このときの悔しさは今でも私の脳裏に焼き付いている）。 日本柔道は、私が強い兄に憧れて柔道を始めた頃からオリンピック競技に採用されるため、本来の柔道の姿を失いつつあった。当時は奥襟をとる組手が流行り始め、力の柔道、ゲームとしての柔道へと変化していく過渡期だった。その後、現在のようなウエイトによる階級でオリンピック種目として定着していった。その過程で嘉納治五郎先生の理想が失われてしまったようで寂しい限りだ。皮肉にも戦争のため実現しなかったが、日本で初のオリンピック開催に尽力したのが嘉納先生だった。 肩越しに帯をとったり、襟をとられまいとして自分の襟をとる闘いなどは本来の柔道の姿とはほど遠い。兄がわが校の柔道部に稽古をつけに来たとき、オーソドックスに右手は相手の左横襟、左手は相手の右袖を瞬時にとると、強い先輩連中を次から次へと投げ飛ばしていた。しかもその体勢から瞬時に左背負いでいとも簡単に投げる姿は芸術的でさえあった。 しかし時代は常に変化していくものだ。理想ばかりを言ってみたところで時代に取り残されてしまうだけだ。わが国の柔道の危うさの要因は大まかに言って二つある。一つは有名選手に対するえこひいき。無名選手が有名選手を投げると“一本”でも“技あり”をとってくれればいいほうで、一度名をあげると過保護にする日本柔道界の体質。もう一つはルールの問題。これは世界の柔道界での日本の発言力の弱さに起因する。元をただせば、講道館一元支配の悪弊、官僚体制に弱い日本人の気質からきている。 今回のオリンピックを観ているとよく分かるが外国人審判の質の悪さにも閉口する。例えば古賀稔彦選手が３回戦で見せた背負い投げを一度も“一本”としてとらなかったこと。少なくとも“技あり”をとってしかるべきである。この試合、本来なら古賀は二度も勝っていることになる。 さて、本旨に戻る。柔道の本質の認識に基づきながら逸早く時代の変化に対応したのが岡野功氏だった。1970年に私塾を設立し、単なる柔道選手の養成の場としてだけではなく、真の人間育成のための機関として、広く社会的・文化的活動と指導方針のもとに、国の内外を問わず真に柔道を愛好する青少年のために尽力している。 その岡野氏が皇宮警察本部柔道師範の佐藤哲也氏と共に1972年に出版したのが『バイタル柔道（投技編）』だ。本書は従来の柔道教書からは発想を転換して、あくまでも実戦の分析を主眼にしたもので、当時の世界の一線級の選手（篠巻正利、関根忍、佐藤宣践、笹原冨美男、園田勇、丸木英二、松田博文、藤猪省三、川口孝夫、後藤誠一、二宮和弘、津沢寿志、上口孝文）が、それぞれの選手の場から実際的な面にポイントをおいて解説を試みた画期的な指導書である。 さらに「本来の柔道は、現行のそれに比較すると、もっと幅のある奥行きの深いものであったはずである。投技にしろ寝技にしろ、現在のような片寄った姿で行っていては、既成の選手以上のものは出現しない。立ってよし、寝てよしの、いわば当然の柔道を目指すならば、特に寝技の研究と活用が今すぐに必要であろう」という思いから、岡野功氏が1975年に出版したのが『バイタル柔道―寝技編』だ。 文字どおり、立ってよし、寝てよしの名声を博した著者自身の独特の寝技を、連続写真によって再現した本書は、寝技に自分なりの個性をつくり出そうとする修行者にとって、必ず良き参考になるはずである。 以上、二書とも初版が発行されてから二十年近くたつ現在においてもなお異彩を放つ、柔道教書のバイブルと言っても過言ではない。 『バトルスピン』1992年9月号 &#160;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table cellspacing="12" cellpadding="1" width="90%">
<tbody>
<tr>
<td colspan="3"><span style="color: #0c0471;"><a href="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E052_thumb.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-398" title="E052_thumb" src="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E052_thumb.jpg" alt="" width="75" height="106" /></a><a href="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E051_thumb.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-399" title="E051_thumb" src="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E051_thumb.jpg" alt="" width="75" height="106" /></a>岡野功・佐藤哲也著<br />
定価各2,940円（税込）<br />
発行＝<a href="http://www.nichibou.co.jp/" target="_blank">日貿出版社</a><br />
TEL:03-3295-8411</span></p>
<p>バルセロナ・オリンピックのジュウドウをイライラしながらＴＶ観戦していた私は、ふっと岡野功氏を思い浮かべた。彼は1964年の東京オリンピックで初めて実現した柔道の中量級金メダリストだ（このときは軽・中・重・無差別級の四階級で争われ、無差別級でオランダのへーシンクに敗れた日本柔道。このときの悔しさは今でも私の脳裏に焼き付いている）。<span id="more-397"></span><br />
日本柔道は、私が強い兄に憧れて柔道を始めた頃からオリンピック競技に採用されるため、本来の柔道の姿を失いつつあった。当時は奥襟をとる組手が流行り始め、力の柔道、ゲームとしての柔道へと変化していく過渡期だった。その後、現在のようなウエイトによる階級でオリンピック種目として定着していった。その過程で嘉納治五郎先生の理想が失われてしまったようで寂しい限りだ。皮肉にも戦争のため実現しなかったが、日本で初のオリンピック開催に尽力したのが嘉納先生だった。<br />
肩越しに帯をとったり、襟をとられまいとして自分の襟をとる闘いなどは本来の柔道の姿とはほど遠い。兄がわが校の柔道部に稽古をつけに来たとき、オーソドックスに右手は相手の左横襟、左手は相手の右袖を瞬時にとると、強い先輩連中を次から次へと投げ飛ばしていた。しかもその体勢から瞬時に左背負いでいとも簡単に投げる姿は芸術的でさえあった。<br />
しかし時代は常に変化していくものだ。理想ばかりを言ってみたところで時代に取り残されてしまうだけだ。わが国の柔道の危うさの要因は大まかに言って二つある。一つは有名選手に対するえこひいき。無名選手が有名選手を投げると“一本”でも“技あり”をとってくれればいいほうで、一度名をあげると過保護にする日本柔道界の体質。もう一つはルールの問題。これは世界の柔道界での日本の発言力の弱さに起因する。元をただせば、講道館一元支配の悪弊、官僚体制に弱い日本人の気質からきている。<br />
今回のオリンピックを観ているとよく分かるが外国人審判の質の悪さにも閉口する。例えば古賀稔彦選手が３回戦で見せた背負い投げを一度も“一本”としてとらなかったこと。少なくとも“技あり”をとってしかるべきである。この試合、本来なら古賀は二度も勝っていることになる。<br />
さて、本旨に戻る。柔道の本質の認識に基づきながら逸早く時代の変化に対応したのが岡野功氏だった。1970年に私塾を設立し、単なる柔道選手の養成の場としてだけではなく、真の人間育成のための機関として、広く社会的・文化的活動と指導方針のもとに、国の内外を問わず真に柔道を愛好する青少年のために尽力している。<br />
その岡野氏が皇宮警察本部柔道師範の佐藤哲也氏と共に1972年に出版したのが『バイタル柔道（投技編）』だ。本書は従来の柔道教書からは発想を転換して、あくまでも実戦の分析を主眼にしたもので、当時の世界の一線級の選手（篠巻正利、関根忍、佐藤宣践、笹原冨美男、園田勇、丸木英二、松田博文、藤猪省三、川口孝夫、後藤誠一、二宮和弘、津沢寿志、上口孝文）が、それぞれの選手の場から実際的な面にポイントをおいて解説を試みた画期的な指導書である。<br />
さらに「本来の柔道は、現行のそれに比較すると、もっと幅のある奥行きの深いものであったはずである。投技にしろ寝技にしろ、現在のような片寄った姿で行っていては、既成の選手以上のものは出現しない。立ってよし、寝てよしの、いわば当然の柔道を目指すならば、特に寝技の研究と活用が今すぐに必要であろう」という思いから、岡野功氏が1975年に出版したのが『バイタル柔道―寝技編』だ。<br />
文字どおり、立ってよし、寝てよしの名声を博した著者自身の独特の寝技を、連続写真によって再現した本書は、寝技に自分なりの個性をつくり出そうとする修行者にとって、必ず良き参考になるはずである。<br />
以上、二書とも初版が発行されてから二十年近くたつ現在においてもなお異彩を放つ、柔道教書のバイブルと言っても過言ではない。</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="right">『バトルスピン』1992年9月号</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>太気拳　～拳聖澤井健一先生の遺した心技～</title>
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		<pubDate>Sat, 16 Jul 2011 07:13:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ＆推薦本]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kitensha.co.jp/?p=394</guid>
		<description><![CDATA[純粋に、武道一筋に生きた澤井健一先生の 生涯の記録はそのまま“武道哲学”となり得、 武の道を志す者に 新鮮な息吹を投げかける……。 太気至誠拳法 不思議な身体の動き、効果があるのかないのか、まったく見当のつかない技ばかりである。はたしてこれが技といえるのだろうか？　立禅（りつぜん）・揺（ゆり）・這（はい）・練（ねり）・探手（たんしゅ）、耳慣れぬ用語。異様な稽古風景ばかりが目についた。 だが、普段着のまま写っている老人の姿に魅せられた。意志の強そうな目、勝ち気な口元、バランスのとれた身体の動き（手足の位置と腰の安定性）、凄まじい気魄。まさに攻め込もうとする刹那の表情は獣そのものだ。 22年前、私たちはある機会を得て『実戦中国拳法・太気拳』（日貿出版社刊）という技術書をつくることになった。私は中国拳法に接するのはそのときが初めてだった。柔道を少しかじった程度の私には、固定化された空手の概念でしかその拳法を判断できなかった。したがって写真を見てもその動きの意味が理解できなかった。 武道の神髄 その後、私は神宮の森へ通った。その拳法の心意を己の目で、膚で感じとろうと思ったゆえ。むろん付け焼き刃では何もわかるはずがない。だが心の目を通して見詰めれば、糸口くらいは見えるだろう。 季節は盛夏。神宮の森は佐藤嘉道、澤井昭男、岩間統正の各氏を中心に、オランダからやってきたカレンバッハ、スタッパ、フランスのトルードの各氏を含む十余名の拳士たちで活気を帯びていた。 各自が思い思いに一人稽古をしている。その間、澤井先生はそれぞれにアドバイスを施して歩く。一通り各自の稽古が終わると組手に入る。顔面攻撃、金蹴り、何でもありというぶち合いである。 世界のトップクラスの闘いは、静けさの中にも殺気を帯び、闘いの炎となって燃え上がっている。幾度も立ち合いが続いた。 闘い終えると、先生の講評が身をもって示される。その後喫茶店に場を移し、先生を囲んでの武術談義に花が咲く。 拳聖への道 澤井先生は幼い頃より武術を愛し、柔道・剣道・居合道等の修行に励んだ。志を抱いて1931年、28歳で中国に渡った。 修行途上で意拳の達人・王向齋先生に出会い、立ち合いの結果歯が立たず、その場で弟子入りを決意。「外国人は弟子に持たず」と拒否されるも、執拗に入門嘆願を続けて入門を許された。以来、この中国拳法の修行に励んだ。 1947年王向齋先生の許可を得、新たに太気至誠拳法（太気拳）を創始して日本に帰った。帰国後は、師の教えを守って道場を持たず、自然の中で稽古することを主義とし、森の中で修行をした。 また、「太気至誠拳法」宗師としてその優れた拳法理論と実力を慕って集まった弟子に真の中国拳法を指導した。正統に意拳を受け継いだ武道家として知られ、太気拳は他流派の高段者が己の修行に取り入れていることでも注目されている。 残念ながら1988年7月16日、拳聖澤井健一先生はその波瀾万丈の生涯を閉じた。 永遠なる魂 残された者の悲しみは深い。しかし、その偉大な技と魂は遺った。現在、佐藤嘉道氏をはじめとする弟子たちにその技と心は受け継がれた。また日本国内だけではなく、オランダのカレンバッハ氏を筆頭に世界の拳士に受け継がれようとしている。 さらに弟子から弟子へと受け継がれていくであろうし、そうあってほしいと願う。技が継承されていくことは至難ではあるが、少なくともその魂は永遠に語り継がれるであろう。 夢見る少年の瞳と獲物を狙う獣の眼差しを持ち、武道一筋に生きた超人。“人間は光の原点にならねばならない”という先生の強さに起因する限りない優しさ……。 私が最も敬愛する心の師、拳聖澤井健一。先生の武術家として、また人間としての心と太気拳の技が永遠に継承されることを願ってやまない。 ● ● ● （本稿はスポーツライフ社刊『闘いの中で』に掲載された筆者の拙文と気天舎刊『拳聖澤井健一先生』を参考資料として構成・執筆しました） 『フルコンタクトKARATE』1998年7月号 『拳聖澤井健一先生』 佐藤嘉道・著 定価2,520円（税込） 発行＝気天舎（TEL:03-5976-0621） &#160;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table cellspacing="12" cellpadding="1" width="90%">
<tbody>
<tr>
<td colspan="3"><span style="color: #0c0471;"><a href="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E04_thumb.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-395" title="E04_thumb" src="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E04_thumb.jpg" alt="" width="75" height="113" /></a>純粋に、武道一筋に生きた澤井健一先生の<br />
生涯の記録はそのまま“武道哲学”となり得、<br />
武の道を志す者に<br />
新鮮な息吹を投げかける……。<br />
</span></p>
<p><span style="color: #0c0471;">太気至誠拳法<br />
</span><br />
不思議な身体の動き、効果があるのかないのか、まったく見当のつかない技ばかりである。はたしてこれが技といえるのだろうか？　立禅（りつぜん）・揺（ゆり）・這（はい）・練（ねり）・探手（たんしゅ）、耳慣れぬ用語。異様な稽古風景ばかりが目についた。<br />
だが、普段着のまま写っている老人の姿に魅せられた。意志の強そうな目、勝ち気な口元、バランスのとれた身体の動き（手足の位置と腰の安定性）、凄まじい気魄。まさに攻め込もうとする刹那の表情は獣そのものだ。<span id="more-394"></span><br />
22年前、私たちはある機会を得て『実戦中国拳法・太気拳』（日貿出版社刊）という技術書をつくることになった。私は中国拳法に接するのはそのときが初めてだった。柔道を少しかじった程度の私には、固定化された空手の概念でしかその拳法を判断できなかった。したがって写真を見てもその動きの意味が理解できなかった。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">武道の神髄<br />
</span><br />
その後、私は神宮の森へ通った。その拳法の心意を己の目で、膚で感じとろうと思ったゆえ。むろん付け焼き刃では何もわかるはずがない。だが心の目を通して見詰めれば、糸口くらいは見えるだろう。<br />
季節は盛夏。神宮の森は佐藤嘉道、澤井昭男、岩間統正の各氏を中心に、オランダからやってきたカレンバッハ、スタッパ、フランスのトルードの各氏を含む十余名の拳士たちで活気を帯びていた。<br />
各自が思い思いに一人稽古をしている。その間、澤井先生はそれぞれにアドバイスを施して歩く。一通り各自の稽古が終わると組手に入る。顔面攻撃、金蹴り、何でもありというぶち合いである。<br />
世界のトップクラスの闘いは、静けさの中にも殺気を帯び、闘いの炎となって燃え上がっている。幾度も立ち合いが続いた。<br />
闘い終えると、先生の講評が身をもって示される。その後喫茶店に場を移し、先生を囲んでの武術談義に花が咲く。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">拳聖への道<br />
</span><br />
澤井先生は幼い頃より武術を愛し、柔道・剣道・居合道等の修行に励んだ。志を抱いて1931年、28歳で中国に渡った。<br />
修行途上で意拳の達人・王向齋先生に出会い、立ち合いの結果歯が立たず、その場で弟子入りを決意。「外国人は弟子に持たず」と拒否されるも、執拗に入門嘆願を続けて入門を許された。以来、この中国拳法の修行に励んだ。<br />
1947年王向齋先生の許可を得、新たに太気至誠拳法（太気拳）を創始して日本に帰った。帰国後は、師の教えを守って道場を持たず、自然の中で稽古することを主義とし、森の中で修行をした。<br />
また、「太気至誠拳法」宗師としてその優れた拳法理論と実力を慕って集まった弟子に真の中国拳法を指導した。正統に意拳を受け継いだ武道家として知られ、太気拳は他流派の高段者が己の修行に取り入れていることでも注目されている。</p>
<p>残念ながら1988年7月16日、拳聖澤井健一先生はその波瀾万丈の生涯を閉じた。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">永遠なる魂<br />
</span><br />
残された者の悲しみは深い。しかし、その偉大な技と魂は遺った。現在、佐藤嘉道氏をはじめとする弟子たちにその技と心は受け継がれた。また日本国内だけではなく、オランダのカレンバッハ氏を筆頭に世界の拳士に受け継がれようとしている。<br />
さらに弟子から弟子へと受け継がれていくであろうし、そうあってほしいと願う。技が継承されていくことは至難ではあるが、少なくともその魂は永遠に語り継がれるであろう。<br />
夢見る少年の瞳と獲物を狙う獣の眼差しを持ち、武道一筋に生きた超人。“人間は光の原点にならねばならない”という先生の強さに起因する限りない優しさ……。<br />
私が最も敬愛する心の師、拳聖澤井健一。先生の武術家として、また人間としての心と太気拳の技が永遠に継承されることを願ってやまない。</td>
</tr>
<tr>
<td align="center">●</td>
<td align="center">●</td>
<td align="center">●</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3">（本稿はスポーツライフ社刊『闘いの中で』に掲載された筆者の拙文と気天舎刊『拳聖澤井健一先生』を参考資料として構成・執筆しました）</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="right">『フルコンタクトKARATE』1998年7月号</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3">
<hr />
</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="left"><span style="color: #0c0471;">『拳聖澤井健一先生』<br />
佐藤嘉道・著<br />
定価2,520円（税込）<br />
発行＝気天舎（TEL:03-5976-0621）<br />
</span></td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		<title>レジェンド　～格闘王国オランダの新たな伝説～</title>
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		<pubDate>Sat, 16 Jul 2011 07:12:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ＆推薦本]]></category>

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		<description><![CDATA[極真空手、キックボクシング、太気拳、フリーファイト、K-1…。 あらゆる格闘技で活躍するダッチ・ファイター。 その強さの秘密を探る。 &#160; オランダの武道 オランダは人口が1500万人にも満たない小さな国だ。しかし奇妙なことにそのオランダがファイティングアーツのリーディング国の一つなのである。 　K-1で活躍するペーター（ピーター）・アーツやアルネスト（アーネスト）・ホースト、そして極真空手ではジョン・ブルミン、ヤン・カレンバッハ（カレンバッチ）、ミッシェル・ウェドゥル（ウェーデル）、ペーター・シュミッツ（ピーター・スミット）、ヤン・プラスなど。さらにキックボクシングではキックの帝王ロブ・カーマンを筆頭に多くの強豪を輩出している。 なぜオランダの格闘家は強いのか？　ここでオランダの格闘技の歴史を見ることによって、その強さの秘密の一端を探ってみよう。 柔道・柔術の流行 それは日本と違ってそんなに古いものではない。最初に人気を得たのは柔道・柔術だった。第二次世界大戦後にあるコミック本が流行した。それは私立探偵ディック・ボシュを主人公とし、このヒーローが柔道・柔術の技を使って“悪人ども”をやっつけるというストーリーだった。このコミックの影響で柔道・柔術が盛んになり、1950年代にはフランスやイギリスをしのぐ勢いで急成長した。 そしてアントン・へーシンクが61年に世界チャンピオンになり、64年の東京オリンピックで金メダルを獲得することによって柔道の競技人口は爆発的に増えたのである。ちなみに40年に登録された柔道家は総勢210人に過ぎなかったが、7年後の47年にはこの人数は1495人にまで増え、現在では6万人が登録されている。この人数は決して少ない数字ではない。人口比で見てみれば一目瞭然だ。僅か1500万人にも満たないオランダでこれだけの人数が柔道を経験しているのである。 魔法の格闘技＝極真空手 次に普及したのが空手だった。61年にジョン・ブルミンが日本から帰国して極真空手を紹介したのが始まりだ。 ジョン・ブルミンは日本で柔道を学ぶとともに極真空手や他の武術も習得しており、オランダに帰ると柔道の指導の傍ら空手を練習していた。そのとき18歳のヤン・カレンバッハはブルミンの柔道の教えに深い感銘を受けるとともに空手に魅了されたのである。 《カレンバッハがこれらの柔道の練習に参加していたとき、ジョン・ブルミンが柔道の練習の後に何か奇妙なストレッチング運動をやっているのを目撃した。彼が「何をやっているのですか」と尋ねると、ブルミンはこう説明した。「これは魔法の格闘技で極真空手と言われている……」と。 「私たちはそれに魅了されました。彼は私たちの求めに応じていろんなものを見せてくれました。そして、そのすぐ後にフォーケンベーハー通りの中の有名な彼の道場で私たちは練習を開始したのです」》 （気天舎刊『レジェンド・オランダ格闘家列伝』より抜粋） 以後、オランダにおける極真空手の発展は衆知のことであり、世界選手権でのミッシェル・ウェドゥルやペーター・シュミッツの活躍は日本の格闘技ファンの脳裏に焼き付いていることと思う。 キックボクシングの台頭 オランダの格闘技の背景には柔道と空手があり、その延長線上に他の格闘技があると言っても過言ではない。極真空手を学んでいたヤン・プラスは75年に来日し、黒崎健時師範のもとでキックボクシングを知り、オランダに持ち帰った。76年5月31日、アムステルダムのエイデン・ホールで最初のムエタイ／キックボクシングのイベントが開催された。これはヤン・プラスが主催したもので、これを契機にオランダでキックボクシングがブームとなり、ロブ・カーマンやラモン・デッカーなど、幾多の名選手を輩出することになる。 その後の歴史は各格闘技雑誌に何度も登場しているのでここでは割愛する。以上、簡単にオランダの格闘技の歴史を紹介したが、結局オランダの強さの秘密の一端は少年時代から始まる柔道教育と空手の普及が考えられる。また、国土の狭さ、低さなどの風土と欧州における歴史的位置や恵まれた体躯にあると言えるのではないだろうか。 『フルコンタクトKARATE』1998年4月号 『レジェンド～オランダ格闘家列伝』 フレッド・ロイヤース他・著 定価1,890円（税込） 発行＝気天舎（TEL:03-5976-0621） &#160;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table cellspacing="12" cellpadding="1" width="90%">
<tbody>
<tr>
<td colspan="3"><span style="color: #0c0471;"><a href="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E03_thumb.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-392" title="E03_thumb" src="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E03_thumb.jpg" alt="" width="137" height="110" /></a>極真空手、キックボクシング、太気拳、フリーファイト、K-1…。<br />
あらゆる格闘技で活躍するダッチ・ファイター。<br />
その強さの秘密を探る。<br />
</span>&nbsp;</p>
<p><span style="color: #0c0471;">オランダの武道<br />
</span><br />
オランダは人口が1500万人にも満たない小さな国だ。しかし奇妙なことにそのオランダがファイティングアーツのリーディング国の一つなのである。 　K-1で活躍するペーター（ピーター）・アーツやアルネスト（アーネスト）・ホースト、そして極真空手ではジョン・ブルミン、ヤン・カレンバッハ（カレンバッチ）、ミッシェル・ウェドゥル（ウェーデル）、ペーター・シュミッツ（ピーター・スミット）、ヤン・プラスなど。さらにキックボクシングではキックの帝王ロブ・カーマンを筆頭に多くの強豪を輩出している。<span id="more-391"></span><br />
なぜオランダの格闘家は強いのか？　ここでオランダの格闘技の歴史を見ることによって、その強さの秘密の一端を探ってみよう。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">柔道・柔術の流行<br />
</span><br />
それは日本と違ってそんなに古いものではない。最初に人気を得たのは柔道・柔術だった。第二次世界大戦後にあるコミック本が流行した。それは私立探偵ディック・ボシュを主人公とし、このヒーローが柔道・柔術の技を使って“悪人ども”をやっつけるというストーリーだった。このコミックの影響で柔道・柔術が盛んになり、1950年代にはフランスやイギリスをしのぐ勢いで急成長した。<br />
そしてアントン・へーシンクが61年に世界チャンピオンになり、64年の東京オリンピックで金メダルを獲得することによって柔道の競技人口は爆発的に増えたのである。ちなみに40年に登録された柔道家は総勢210人に過ぎなかったが、7年後の47年にはこの人数は1495人にまで増え、現在では6万人が登録されている。この人数は決して少ない数字ではない。人口比で見てみれば一目瞭然だ。僅か1500万人にも満たないオランダでこれだけの人数が柔道を経験しているのである。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">魔法の格闘技＝極真空手<br />
</span><br />
次に普及したのが空手だった。61年にジョン・ブルミンが日本から帰国して極真空手を紹介したのが始まりだ。<br />
ジョン・ブルミンは日本で柔道を学ぶとともに極真空手や他の武術も習得しており、オランダに帰ると柔道の指導の傍ら空手を練習していた。そのとき18歳のヤン・カレンバッハはブルミンの柔道の教えに深い感銘を受けるとともに空手に魅了されたのである。<br />
《カレンバッハがこれらの柔道の練習に参加していたとき、ジョン・ブルミンが柔道の練習の後に何か奇妙なストレッチング運動をやっているのを目撃した。彼が「何をやっているのですか」と尋ねると、ブルミンはこう説明した。「これは魔法の格闘技で極真空手と言われている……」と。<br />
「私たちはそれに魅了されました。彼は私たちの求めに応じていろんなものを見せてくれました。そして、そのすぐ後にフォーケンベーハー通りの中の有名な彼の道場で私たちは練習を開始したのです」》<br />
（気天舎刊『レジェンド・オランダ格闘家列伝』より抜粋）<br />
以後、オランダにおける極真空手の発展は衆知のことであり、世界選手権でのミッシェル・ウェドゥルやペーター・シュミッツの活躍は日本の格闘技ファンの脳裏に焼き付いていることと思う。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">キックボクシングの台頭<br />
</span><br />
オランダの格闘技の背景には柔道と空手があり、その延長線上に他の格闘技があると言っても過言ではない。極真空手を学んでいたヤン・プラスは75年に来日し、黒崎健時師範のもとでキックボクシングを知り、オランダに持ち帰った。76年5月31日、アムステルダムのエイデン・ホールで最初のムエタイ／キックボクシングのイベントが開催された。これはヤン・プラスが主催したもので、これを契機にオランダでキックボクシングがブームとなり、ロブ・カーマンやラモン・デッカーなど、幾多の名選手を輩出することになる。<br />
その後の歴史は各格闘技雑誌に何度も登場しているのでここでは割愛する。以上、簡単にオランダの格闘技の歴史を紹介したが、結局オランダの強さの秘密の一端は少年時代から始まる柔道教育と空手の普及が考えられる。また、国土の狭さ、低さなどの風土と欧州における歴史的位置や恵まれた体躯にあると言えるのではないだろうか。</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="right">『フルコンタクトKARATE』1998年4月号</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3">
<hr />
</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="left"><span style="color: #0c0471;">『レジェンド～オランダ格闘家列伝』<br />
フレッド・ロイヤース他・著<br />
定価1,890円（税込）<br />
発行＝気天舎（TEL:03-5976-0621）<br />
</span></td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>太気拳と意拳</title>
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		<pubDate>Sat, 16 Jul 2011 07:10:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ＆推薦本]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kitensha.co.jp/?p=388</guid>
		<description><![CDATA[拳聖・澤井健一先生が創始した［太気拳］。 その源流・王向齋先生の［意拳］が今、 中国武術界で新たな注目を集めている……。 意拳は本当に継承されているのか 「半歩あまねく天下を制す」と謳われた形意拳の達人・郭雲深先生の高弟・王向齋先生が意拳（大成拳）を創始し、その技と精神は中国全土に根付き、日本では澤井健一先生によって太気拳として継承されている。このことは武術家や武術愛好家に広く知られているが、その実態はあまり知られていない。 そこで今回、澤井健一先生の直弟子・久保勇人太氣拳協会会長兼総教練に現在の中国における実際を伺った。 久保勇人氏は19歳で太気拳に入門、澤井先生に直接指導を受け、最年少で免状（練士五段）を与えられた実力者で、中国の意拳と交流を深めながら日本国内で太気拳の普及・発展に寄与している。その実力は澤井先生の高弟・佐藤嘉道氏も高く評価しているほどである。 姚承光、承榮兄弟と意拳 王向齋先生の高弟・姚宗勲先生は澤井先生と最も仲のよかった実力者だった。現在、そのご子息で北京市武協宗勲武館館長・姚承光氏と北京市武協中意武館館長・姚承榮氏を始め、多くの実力者が意拳を継承し、後進の指導にあたっている。 久保氏は90年に初めて訪中し、中国意拳との友好関係を築き、92年には姚兄弟の来日実現に大いに寄与した。以降、日中の王向齋先生の孫弟子間の友好と武術の錬磨を続けている。 姚兄弟は幼い頃より父・姚宗勲先生に厳しく鍛えられ、意拳の神髄を体得している。 中国武術界では意拳の強さは群を抜いており、散手大会には意拳の選手は参加禁止になっていた。それは82年４月に北京で開催された「第１回全国散手大会」での出来事が原因となっている。 この大会に出場した姚承光氏は試合開始47秒、右パンチ一発で相手をＫＯした。すぐ救急車で病院に運ばれたが重傷だったという。 主催者は即座に意拳の他の選手も出場停止にし、以後意拳の散手大会への参加はご法度となったのである。 意拳組手大会 その強さゆえ大会出場の機会を奪われた意拳は、98年にようやく独自に大会を行うようになった。 北京市内北部にある奥林匹克（オリンピック）体育中心の中国武術研究院３階競技場で11月15日、非公開ながら300人の観衆を集め、「首届（第１回）北京意拳実戦交流観摩（競争）大会」を開催した。 最初に中国武術協会主席の李杰氏が挨拶に立ち、次いで澤井先生の兄弟弟子・張中市が挨拶を行い、香港意拳協会会長の霍震寰氏が開催宣言し、試合が開始された。 ルールは、ヒジ打ち、ヒザ蹴り禁止で、手による顔面攻撃を認めた（グローブを着用）フルコンタクトのワンマッチ制で、13試合が行われた。北京市武術運動協会意拳研究会が主催し、北京市の意拳６道場26選手が参加した。 この大会に招かれた久保氏は北京市武協宗勲武館のセコンドとして意拳最初の大会を見守った。 この大会で自信を深めた意拳協会は、本年３月21日に全国意拳組手大会を北京で開催し、５月22日には浙江省で世界大会を中国武術協会の主催で行うことを決定した。 姚宗勲先生の直弟子・崔瑞彬 姚兄弟とともに姚宗勲先生の薫陶を受けた武術家に崔瑞彬氏がいる。 49年生まれの崔氏は16歳から本格的に武術の修行を始めた。また、68年に意拳を学び始め、72年から姚宗勲先生に師事した。 当時北京から約50キロ離れた昌平県に住んでいた姚先生の下に毎週末北京から通い、姚承光氏と寝食をともにしながら意拳の教えを受けたという。さらに姚先生が亡くなる85年まで指示し、意拳の習得に努めている。 また、崔氏は西洋に意拳を広めるべく渡欧し、オランダのカレンバッハ氏やスウェーデンのマーシャル氏など、ヨーロッパの太気拳拳士との交流も行っている。 崔氏は95年11月、敷地約2000坪に屋内・屋外練習場、宿舎、食堂を完備した道場を北京東北部昌平県に開き、後進の指導にあたっている。 その崔氏が主宰する「国際意拳培訓中心」を姚承光氏と久保氏が本年２月４日に訪問し、旧交を暖めた。 以下、崔氏に姚宗勲先生の思い出を語っていただいた。 姚宗勲先生と意拳の神髄 「初めて姚宗勲先生にお会いした時、威圧感を感じるとともに、それまで出会った武術家とは比べものにならない程の衝撃を受けました」 姚先生の教え方は保守的で厳しかったが、開放的な面もあり、理論的で「理論的な原理を教えなければ弟子はそれ以上伸びない」というものだった。 また、崔氏は姚承光氏とともに毎晩稽古後に疲れきって寝ていたが、姚先生は真冬の厳寒の北京の朝でも４時頃には外で站椿（立禅）を組んでいたという、 「姚先生は手袋もせず立禅をしていて、真っ暗な中で目だけが光り輝いていたのが印象的でした」 姚先生は基本の鍛錬と他流派との交流・試合の重要性を説いていた。 「意拳の打ち方は奥が深い。(1)ゆっくり打つ打ち方と(2)速く打つ打ち方(3)ゆっくりでない打ち方と(4)速くない打ち方がある」 「最も大切なことは常に他流試合をすること、交流をすることだ」 姚先生が北京西部にある小花児園で教えていた頃、先生の名声を聞いた他流の人が常に訪れ、頻繁に試合が行われていた。 その時、崔氏と姚承光氏は必ず他流の人と試合をしていた。そのことで二人は技術的に著しく向上したのである。 「ある日、姚先生がいない時に他流の人が来て、承光氏と二人で代わる代わる試合をしました。結果は相手をＫＯしたのですが、その後に姚先生が見えて『私がいない時に他流試合をするな』と、激しく諌められました」 &#8230; <a href="http://www.kitensha.co.jp/essey/%e5%a4%aa%e6%b0%97%e6%8b%b3%e3%81%a8%e6%84%8f%e6%8b%b3/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table cellspacing="12" cellpadding="1" width="90%">
<tbody>
<tr>
<td colspan="3"><span style="color: #0c0471;"><a href="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E02_thumb.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-389" title="E02_thumb" src="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E02_thumb.jpg" alt="" width="75" height="110" /></a>拳聖・澤井健一先生が創始した［太気拳］。<br />
その源流・王向齋先生の［意拳］が今、<br />
中国武術界で新たな注目を集めている……。</span></p>
<p><span style="color: #0c0471;">意拳は本当に継承されているのか<br />
</span><br />
「半歩あまねく天下を制す」と謳われた形意拳の達人・郭雲深先生の高弟・王向齋先生が意拳（大成拳）を創始し、その技と精神は中国全土に根付き、日本では澤井健一先生によって太気拳として継承されている。このことは武術家や武術愛好家に広く知られているが、その実態はあまり知られていない。<span id="more-388"></span><br />
そこで今回、澤井健一先生の直弟子・久保勇人太氣拳協会会長兼総教練に現在の中国における実際を伺った。<br />
久保勇人氏は19歳で太気拳に入門、澤井先生に直接指導を受け、最年少で免状（練士五段）を与えられた実力者で、中国の意拳と交流を深めながら日本国内で太気拳の普及・発展に寄与している。その実力は澤井先生の高弟・佐藤嘉道氏も高く評価しているほどである。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">姚承光、承榮兄弟と意拳<br />
</span><br />
王向齋先生の高弟・姚宗勲先生は澤井先生と最も仲のよかった実力者だった。現在、そのご子息で北京市武協宗勲武館館長・姚承光氏と北京市武協中意武館館長・姚承榮氏を始め、多くの実力者が意拳を継承し、後進の指導にあたっている。<br />
久保氏は90年に初めて訪中し、中国意拳との友好関係を築き、92年には姚兄弟の来日実現に大いに寄与した。以降、日中の王向齋先生の孫弟子間の友好と武術の錬磨を続けている。<br />
姚兄弟は幼い頃より父・姚宗勲先生に厳しく鍛えられ、意拳の神髄を体得している。<br />
中国武術界では意拳の強さは群を抜いており、散手大会には意拳の選手は参加禁止になっていた。それは82年４月に北京で開催された「第１回全国散手大会」での出来事が原因となっている。<br />
この大会に出場した姚承光氏は試合開始47秒、右パンチ一発で相手をＫＯした。すぐ救急車で病院に運ばれたが重傷だったという。<br />
主催者は即座に意拳の他の選手も出場停止にし、以後意拳の散手大会への参加はご法度となったのである。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">意拳組手大会<br />
</span><br />
その強さゆえ大会出場の機会を奪われた意拳は、98年にようやく独自に大会を行うようになった。<br />
北京市内北部にある奥林匹克（オリンピック）体育中心の中国武術研究院３階競技場で11月15日、非公開ながら300人の観衆を集め、「首届（第１回）北京意拳実戦交流観摩（競争）大会」を開催した。<br />
最初に中国武術協会主席の李杰氏が挨拶に立ち、次いで澤井先生の兄弟弟子・張中市が挨拶を行い、香港意拳協会会長の霍震寰氏が開催宣言し、試合が開始された。<br />
ルールは、ヒジ打ち、ヒザ蹴り禁止で、手による顔面攻撃を認めた（グローブを着用）フルコンタクトのワンマッチ制で、13試合が行われた。北京市武術運動協会意拳研究会が主催し、北京市の意拳６道場26選手が参加した。<br />
この大会に招かれた久保氏は北京市武協宗勲武館のセコンドとして意拳最初の大会を見守った。<br />
この大会で自信を深めた意拳協会は、本年３月21日に全国意拳組手大会を北京で開催し、５月22日には浙江省で世界大会を中国武術協会の主催で行うことを決定した。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">姚宗勲先生の直弟子・崔瑞彬<br />
</span><br />
姚兄弟とともに姚宗勲先生の薫陶を受けた武術家に崔瑞彬氏がいる。<br />
49年生まれの崔氏は16歳から本格的に武術の修行を始めた。また、68年に意拳を学び始め、72年から姚宗勲先生に師事した。<br />
当時北京から約50キロ離れた昌平県に住んでいた姚先生の下に毎週末北京から通い、姚承光氏と寝食をともにしながら意拳の教えを受けたという。さらに姚先生が亡くなる85年まで指示し、意拳の習得に努めている。<br />
また、崔氏は西洋に意拳を広めるべく渡欧し、オランダのカレンバッハ氏やスウェーデンのマーシャル氏など、ヨーロッパの太気拳拳士との交流も行っている。<br />
崔氏は95年11月、敷地約2000坪に屋内・屋外練習場、宿舎、食堂を完備した道場を北京東北部昌平県に開き、後進の指導にあたっている。<br />
その崔氏が主宰する「国際意拳培訓中心」を姚承光氏と久保氏が本年２月４日に訪問し、旧交を暖めた。<br />
以下、崔氏に姚宗勲先生の思い出を語っていただいた。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">姚宗勲先生と意拳の神髄<br />
</span><br />
「初めて姚宗勲先生にお会いした時、威圧感を感じるとともに、それまで出会った武術家とは比べものにならない程の衝撃を受けました」<br />
姚先生の教え方は保守的で厳しかったが、開放的な面もあり、理論的で「理論的な原理を教えなければ弟子はそれ以上伸びない」というものだった。<br />
また、崔氏は姚承光氏とともに毎晩稽古後に疲れきって寝ていたが、姚先生は真冬の厳寒の北京の朝でも４時頃には外で站椿（立禅）を組んでいたという、<br />
「姚先生は手袋もせず立禅をしていて、真っ暗な中で目だけが光り輝いていたのが印象的でした」<br />
姚先生は基本の鍛錬と他流派との交流・試合の重要性を説いていた。<br />
「意拳の打ち方は奥が深い。(1)ゆっくり打つ打ち方と(2)速く打つ打ち方(3)ゆっくりでない打ち方と(4)速くない打ち方がある」<br />
「最も大切なことは常に他流試合をすること、交流をすることだ」<br />
姚先生が北京西部にある小花児園で教えていた頃、先生の名声を聞いた他流の人が常に訪れ、頻繁に試合が行われていた。<br />
その時、崔氏と姚承光氏は必ず他流の人と試合をしていた。そのことで二人は技術的に著しく向上したのである。<br />
「ある日、姚先生がいない時に他流の人が来て、承光氏と二人で代わる代わる試合をしました。結果は相手をＫＯしたのですが、その後に姚先生が見えて『私がいない時に他流試合をするな』と、激しく諌められました」<br />
師がいない時の他流試合の危険性を諭された崔氏と姚承光氏は以後、一切他流試合を断ったという。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">姚宗勲先生のエピソード<br />
</span><br />
「80年代に入って姚先生に教えを乞うてフランス人が北京に来ました。その時、最初に站椿（立禅）を組まされ、意味が理解できないそのフランス人は、先生に『これは何のためにやるのですか』と聞きました。その質問に先生はその人の手に触れると、一瞬の内に素っ飛ばしました。以後、その人は二度と質問をしませんでした」<br />
また、姚先生はこんなエピソードも残している。<br />
「上海に住んでいる形意拳の王壮飛という人が『王向齋の功夫は大したことはない。私に会う時、彼は常に低姿勢だった』と言っているのを伝え聞いた姚先生は81年に私（崔氏）を伴って上海へ試合に行きました。しかし、王壮飛は逃亡して会食にすら出席しませんでした」<br />
その時に姚先生の兄弟弟子で有名な上海の武術家・張長信先生の紹介で上海武術協会主席・蔡龍雲先生との交流を深めた。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">澤井健一先生との友情<br />
</span><br />
澤井健一先生が中国で王向齋先生の下で意拳の教えを受けていた頃、姚宗勲先生の家に寝泊まりをして一緒に稽古をしていた。<br />
「澤井先生は精神力がずば抜けていた」と姚先生は常々語っていた。<br />
また、澤井先生は酒が強かった。<br />
「今日は何本飲もうと決めたら、その本数を飲み干すまで二人とも決して帰らなかった」<br />
しかし、前夜どんなに深酒をしても翌朝の稽古を二人は欠かさなかったという。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">太気拳と意拳の未来<br />
</span><br />
王向齋先生が創始した意拳（大成拳）は中国本土では弟子の姚宗勲先生たちに受けつがれ、その弟子・姚承光氏や崔瑞彬氏らの孫弟子へ、そして多くの曾孫弟子へと伝承されようとしている。<br />
日本では澤井健一先生が柔道、剣道などの日本武術の長所を取り入れ、太気拳として開花した。その技術と精神は佐藤嘉道氏や久保勇人氏らに受け継がれ、またその弟子たちへと続いていくだろう。<br />
ヨーロッパでは澤井先生の弟子・カレンバッハ氏やマーシャル氏を中心に太気拳、意拳が研究されている。<br />
さらに中国では、本年中に香港意拳協会会長の霍震寰氏を中心に崔瑞彬氏や姚承光氏らが中国意拳協会を設立し、意拳を世界に広める作業に着手した。<br />
久保勇人氏は中国の意拳と交流を深めつつ、太気拳を日本中に根付かせるため、各地に支部を開設せんとしている。<br />
太気拳と意拳の未来は明るい。拳聖・澤井健一先生は、この日中の王向齋先生の孫弟子たちの活躍に、草葉の陰できっと、あの笑顔を見せているに違いない。</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="right">『フルコンタクトKARATE』1999年5月号</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3">
<hr />
</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="left"><span style="color: #0c0471;">【太気拳関連書】<br />
『実戦中国拳法太気拳』澤井健一著／発行＝<a href="http://www.nichibou.co.jp/" target="_blank">日貿出版社</a><br />
『拳聖澤井健一先生』佐藤嘉道著／発行＝気天舎<br />
『空手とは何か』盧山初雄著／発行＝気天舎<br />
『実戦拳法太氣拳』久保勇人著／発行＝<a href="http://www.bbm-japan.com/" target="_blank">ベースボール・マガジン社</a><br />
</span></td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>バンコク・自分探しのリング　～ムエタイを選んだ５人の日本人～</title>
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		<pubDate>Sat, 16 Jul 2011 07:09:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[エッセイ＆推薦本]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.kitensha.co.jp/?p=385</guid>
		<description><![CDATA[「生きる手触り」をムエタイのリングに求めて 単身バンコクに渡った５人の若者たち。 そこで見つけたものは……。 《ムエタイの世界に生きる日本人。 私は、このテーマを携えタイに向かった。 ただ、格闘技に興味がなかった私にとって、ムエタイの役割は、単なる入り口に過ぎなかった。 私が肉薄したかったのは、内なる自己と闘い、つまずき、立ち上がり、時に迷い、そして乗り越えてゆく人たちの生き方だった。ムエタイの門を叩けば、そんな人たちと会えると夢想していた。》 この文は吉川秀樹著『バンコク・自分さがしのリング』の冒頭に書かれているものである。 私がこの本に出会ったのが12月初旬、発行元の「めこん」という出版社だった。本といってもまだゲラの段階だったが、添えられた写真を見ながら郷愁に似た感情を抱いた。 ムエタイのジムで汗を流す姿、リングに寝転び寛ぐ若者、ルンピニーとラジャダムナン・スタジアム、バンコクの街……。それは私にとって初めて見る写真であるにもかかわらず、懐かしさとほろ苦さを感じさせるものだった。 ゲラを読み進むうちにその感覚と匂いが私を包み込んでいった。十数年、ムエタイや武術に深くかかわっていた私の過去に由来するものだけではなく、過ぎ去った青春時代のあの感覚が甦ったからである。 廣田中、吉野裕和、伊東綾子、山田秀行、鈴木秀樹、この５人の若者を同世代の著者、吉川秀樹が追った「自分さがしのリング」の一部を紹介しよう。 孤独を求める 家族の猛反対を押し切り、廣田中(あたる)は日本を発った。19歳の秋だった。 タイの南部、ホアヒンにきれいなジムがあるという資料だけを頼りに異国の地に踏み入った。 高校時代、衛星放送でリングスの試合が放映されており、その団体のスタイルに魅入られた廣田。 次第にテレビを見ているだけでは飽き足りなくなってきた。しかし身長170センチそこそこの彼にとってリングス入門は難しかった。 ムエタイを知ると同時にキックボクシングという格闘技が日本にあることを知った。階級制がしかれたこの競技なら自分にもできる、と考えるようになった。それが高校３年生の夏には固い決意になっていた。 廣田は大学に入るとすぐにキックボクシングを始めた。最初は大学の近くにある埼玉のジムに行ったが、ろくに技術を教えてくれない。そこで東京の有名なジムに通った。 しかし、ここもいい加減な所だった。このジムがこの程度なら、日本に強くなる道がない。もうタイに行くしかない。 かくして1993年10月、廣田はタイに渡った。 ホアヒンの駅前で拾った自転車タクシーはボロボロのジムの前で停まった。日本を離れて24時間後、ムエタイ一色の生活がスタートしたのである。 10日後にはデビュー戦を３ラウンドＫＯで飾り、以後３カ月間で９戦という凄まじい勢いで試合をこなした。戦績は８勝１敗だった。 このようにして始まった廣田の選手生活が４年目に入る頃、吉川は廣田に出会った。 吉川はムエタイの世界に身を置く日本人に会いたいと思いタイに行った。しかしムエタイの知識はあまりなく、ムエタイ関係の知り合いも皆無だった。 バンコクに着いた翌日、吉川はラジャダムナン・スタジアムに向かった。そこで運よく日本人が戦っている試合を観戦できた。 しかもその試合の３日後、市内でその彼にばったり出くわしたのである。それから廣田と吉川の旅が始まった。 当時、廣田は既にホアヒンからバンコクのジムに移り、３日前の試合が28戦目だった。しかし、その１年後、彼はタイ東北部のウボンラーチャタニーのジムに移った。 27戦目までは勝率７割の彼はその後の１年間の戦績が７戦１勝６敗という惨めなものだった。そこで自分を追い込むため田舎のジムに移ることにしたのだった。 ウボンで１戦した後、彼は再びバンコクに戻った。ウボン戦を含むそれ以降の戦績は８戦４勝４敗。 廣田中の旅はまだまだ続く……。 強くなりたい 伊東綾子が初めてムエタイに出会ったのは1997年１月、パックツアーでタイに行った時だった。 何気なく見に行ったルンピニー・スタジアムでものすごい衝撃を受けた。ムエタイに魅入られたのである。 その年のうちに彼女は単身タイに渡り、ムエタイのジムに入門していた。 彼女が大学に入学する直前に両親が離婚。大学２年で中退し、就職。その３年後の決断だった。 「一人で生きられる人間になりたいんですよ。強い個体になりたいんですよ。生命力とか、腕力とか、頭脳も、心も。総合的に強くなりたいんですよ」 それが彼女のムエタイに傾倒していったきっかけだった。 中学の終わり頃から家族がバラバラだった彼女にとって、忘れていたものに近い状態がムエタイのジムにはあった。 「日本では疲れてる。鎧着ちゃってるから。今は全然カッコつける必要がない。何も持っていない。服なんかもほとんど持ってきてないし、お金も少ししかない」 &#8230; <a href="http://www.kitensha.co.jp/essey/%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%b3%e3%82%af%e3%83%bb%e8%87%aa%e5%88%86%e6%8e%a2%e3%81%97%e3%81%ae%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%80%80%ef%bd%9e%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%82%92%e9%81%b8%e3%82%93/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table cellspacing="12" cellpadding="1" width="90%">
<tbody>
<tr>
<td colspan="3"><span style="color: #0c0471;">「生きる手触り」をムエタイのリングに求めて<br />
<a href="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E01_thumb.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-386" title="E01_thumb" src="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/E01_thumb.jpg" alt="" width="75" height="110" /></a>単身バンコクに渡った５人の若者たち。<br />
そこで見つけたものは……。</span><br />
<span id="more-385"></span><br />
《ムエタイの世界に生きる日本人。<br />
私は、このテーマを携えタイに向かった。<br />
ただ、格闘技に興味がなかった私にとって、ムエタイの役割は、単なる入り口に過ぎなかった。<br />
私が肉薄したかったのは、内なる自己と闘い、つまずき、立ち上がり、時に迷い、そして乗り越えてゆく人たちの生き方だった。ムエタイの門を叩けば、そんな人たちと会えると夢想していた。》<br />
この文は吉川秀樹著『バンコク・自分さがしのリング』の冒頭に書かれているものである。<br />
私がこの本に出会ったのが12月初旬、発行元の「めこん」という出版社だった。本といってもまだゲラの段階だったが、添えられた写真を見ながら郷愁に似た感情を抱いた。<br />
ムエタイのジムで汗を流す姿、リングに寝転び寛ぐ若者、ルンピニーとラジャダムナン・スタジアム、バンコクの街……。それは私にとって初めて見る写真であるにもかかわらず、懐かしさとほろ苦さを感じさせるものだった。<br />
ゲラを読み進むうちにその感覚と匂いが私を包み込んでいった。十数年、ムエタイや武術に深くかかわっていた私の過去に由来するものだけではなく、過ぎ去った青春時代のあの感覚が甦ったからである。<br />
廣田中、吉野裕和、伊東綾子、山田秀行、鈴木秀樹、この５人の若者を同世代の著者、吉川秀樹が追った「自分さがしのリング」の一部を紹介しよう。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">孤独を求める</p>
<p></span> 家族の猛反対を押し切り、廣田中(あたる)は日本を発った。19歳の秋だった。<br />
タイの南部、ホアヒンにきれいなジムがあるという資料だけを頼りに異国の地に踏み入った。<br />
高校時代、衛星放送でリングスの試合が放映されており、その団体のスタイルに魅入られた廣田。<br />
次第にテレビを見ているだけでは飽き足りなくなってきた。しかし身長170センチそこそこの彼にとってリングス入門は難しかった。<br />
ムエタイを知ると同時にキックボクシングという格闘技が日本にあることを知った。階級制がしかれたこの競技なら自分にもできる、と考えるようになった。それが高校３年生の夏には固い決意になっていた。<br />
廣田は大学に入るとすぐにキックボクシングを始めた。最初は大学の近くにある埼玉のジムに行ったが、ろくに技術を教えてくれない。そこで東京の有名なジムに通った。<br />
しかし、ここもいい加減な所だった。このジムがこの程度なら、日本に強くなる道がない。もうタイに行くしかない。<br />
かくして1993年10月、廣田はタイに渡った。<br />
ホアヒンの駅前で拾った自転車タクシーはボロボロのジムの前で停まった。日本を離れて24時間後、ムエタイ一色の生活がスタートしたのである。<br />
10日後にはデビュー戦を３ラウンドＫＯで飾り、以後３カ月間で９戦という凄まじい勢いで試合をこなした。戦績は８勝１敗だった。<br />
このようにして始まった廣田の選手生活が４年目に入る頃、吉川は廣田に出会った。<br />
吉川はムエタイの世界に身を置く日本人に会いたいと思いタイに行った。しかしムエタイの知識はあまりなく、ムエタイ関係の知り合いも皆無だった。<br />
バンコクに着いた翌日、吉川はラジャダムナン・スタジアムに向かった。そこで運よく日本人が戦っている試合を観戦できた。<br />
しかもその試合の３日後、市内でその彼にばったり出くわしたのである。それから廣田と吉川の旅が始まった。<br />
当時、廣田は既にホアヒンからバンコクのジムに移り、３日前の試合が28戦目だった。しかし、その１年後、彼はタイ東北部のウボンラーチャタニーのジムに移った。<br />
27戦目までは勝率７割の彼はその後の１年間の戦績が７戦１勝６敗という惨めなものだった。そこで自分を追い込むため田舎のジムに移ることにしたのだった。<br />
ウボンで１戦した後、彼は再びバンコクに戻った。ウボン戦を含むそれ以降の戦績は８戦４勝４敗。<br />
廣田中の旅はまだまだ続く……。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">強くなりたい</p>
<p></span> 伊東綾子が初めてムエタイに出会ったのは1997年１月、パックツアーでタイに行った時だった。<br />
何気なく見に行ったルンピニー・スタジアムでものすごい衝撃を受けた。ムエタイに魅入られたのである。<br />
その年のうちに彼女は単身タイに渡り、ムエタイのジムに入門していた。<br />
彼女が大学に入学する直前に両親が離婚。大学２年で中退し、就職。その３年後の決断だった。<br />
「一人で生きられる人間になりたいんですよ。強い個体になりたいんですよ。生命力とか、腕力とか、頭脳も、心も。総合的に強くなりたいんですよ」<br />
それが彼女のムエタイに傾倒していったきっかけだった。<br />
中学の終わり頃から家族がバラバラだった彼女にとって、忘れていたものに近い状態がムエタイのジムにはあった。<br />
「日本では疲れてる。鎧着ちゃってるから。今は全然カッコつける必要がない。何も持っていない。服なんかもほとんど持ってきてないし、お金も少ししかない」<br />
今は日本に帰ってきているという彼女。自分は見つかったのだろうか。ただ言えることは、流した汗と涙は経験として確実に自分の内に蓄積している、と。</p>
<p><span style="color: #0c0471;">終わらない</p>
<p></span> 真夏のクリスマスを直前に控えた土曜日、バンコク・伊勢丹６階にある紀伊國屋書店で吉川秀樹と鈴木秀樹は待ち合わせた。前者は無名のライターであり、後者はキックボクサーでリングネームを伊達（だて）秀騎という。<br />
この二人のヒデキが出会い、この物語の第五幕が始まる。<br />
伊達がキックボクシングを始めたのは高校１年生の時。格闘技に憧れるきっかけは五歳上の兄がブルース・リーが好きで、その影響を受けて育ったからだ。<br />
当初はキックの世界で生きていこうなどとは思っていなかったが、１年後のデビュー戦が近付くにつれのめり込んでいった。<br />
その後、仙台から東京に移りリングに立つが、戦績はぱっとしなかった。また、試合前に仕事を休んだり、タイへの渡航を重ねる度に借金は膨らんだ。<br />
タイトルマッチの前哨戦、伊達は26歳になっていた。結果は１ラウンドＫＯ負け。<br />
もう限界だった。だが、このままじゃ終われない。<br />
何度もキックボクシングに見切りを付けようとしたが、忘れることができなかった。そんな中でタイに生活の場を移そうと決意した。<br />
彼はこのムエタイの国で“伊達”にふさわしい死に場所を見つけ、殺し、その上で“鈴木”のスタートを切ろうとしたのだ……。</p>
<p>５人の若者と同世代の著者、それぞれの希望と不安、怒り、戸惑い、自身と闘いながら歩む姿に己の青春を重ね合わせて想う。<br />
ムエタイという特異な世界で積み重ねた青春の一頁を、その体験を、彼らはどう消化していくのだろうか。甘酸っぱい感覚が今も離れない。<br />
その体験は決して無駄にはならない。己の汗と血と涙を信じて生きてほしい。きっと「生きる手触り」は感じてきたはずだから。</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="right">『フルコンタクトKARATE』1999年3月号</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3">
<hr />
</td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3" align="left"><span style="color: #0c0471;">『バンコク・自分さがしのリング』<br />
吉川秀樹・著<br />
定価1,500円＋税<br />
発行＝<a href="http://www.mekong-publishing.com/" target="_blank">めこん</a>（TEL:03-3815-1688）</span></td>
</tr>
<tr>
<td colspan="3"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p style="text-align: left;"><span style="font-size: small;"><span style="border-collapse: collapse;"></span></span></p>
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		<title>『武士道教育総論』</title>
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		<pubDate>Sat, 16 Jul 2011 07:06:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[書評・晴練雨読]]></category>

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		<description><![CDATA[風間 健・著 定価2,000円+税 壮神社 (TEL:048-287-1588)&#160; 《文と武について、世間では大きな考えちがいをしている。世間では歌を詠み詩をつくり、文筆が達者で気立てがやさしく優雅なのを文といい、武術、兵法を習い知って、気立ては勇猛でいかついのを武といいならわしている。似たことではあるが、似ていない。元来、文武というのは、一つの徳であって別々のものではない。天地の造物は一つの気であるのに陰陽の別があるように、人の感性は一つの徳で、その中に文武の区別があるのだから、武のない文は真実の文ではない。文を備えていない武も真実の武ではない。(中略) だから、戈と止めるという二つの字をあわせて武の字をつくったのである。文道をおこなうための武道なので、武道の根は文である。武道の威力をもって治める文道だから、文道の根は武である。そのほかあらゆる面において、文武の二つは切り離すことができない。(後略)》 これは江戸初期に活躍し、陽明学派の祖で近江聖人と呼ばれた中江藤樹の『文武問答』の一節を現代語訳したものである。 文武両道の必然性を説いたものだが、これに関連して思い起されるのが、大山倍達極真会館総裁がかつて言われた言葉がある。 それは「力なき正義」と「正義なき力」についてである。総裁は正義を貫くため、「力」を身につける必要性を痛感し、修行に励んだ。しかし、その過程で「正義」のない「力」は蛮勇に過ぎないということを悟ったのである。 盧山初雄最高顧問もまた、その著書の中で《強さと優しさを持って世の中を歩くこと、これが本来の意味での武道だと思う》(『武道のススメ』)と語っている。 今回紹介するこの書は、江戸と明治時代に活躍した先哲者、山鹿素行、中江藤樹、熊沢蕃山、貝原益軒、大道寺友山、井澤蟠龍子、力丸東山、斎藤拙堂、徳川斉昭、吉田松陰、上杉鷹山、山岡鉄舟、植村正久、新渡戸稲造らの武士道論を、その原文と現代語訳を併記し、現代の教育に生かそうという試みで記されたものである。 著者は風間健(道隆)武心道道主。NHK朝の連続ドラマ「私の青空」に出演している筒井道隆の父親としても知られている風間道主は、少林寺拳法や空手を学び、キックボクシングなどのプロ格闘技でも活躍した後、現在武心道を提唱して斯界で意欲的に活動している。 さて、本書で最も興味をそそられたのが山鹿素行の武士道論である。 《江戸時代、武士道を政治哲学にまで高めて武士の教育をしたのが山鹿素行(1622～1685)である。 山鹿素行は、九歳で林羅山の学問所に入ったが、すでに四書五経を読むことができた。そして十五歳の時には、師の許しをえて『大学』の講義を行なっている。(中略) 兵学は秘して見せずという性格上、一般の学問のようには普及しなかったが、素行の兵学は各藩の兵学者にうけつがれ、幕末には幕府講武所師範にまで発展している。大道寺友山も弟子であるが、長州では吉田重矩から子孫の吉田松陰、乃木希典へとつながっている。幕府講武所師範窪田清音の教えをうけた徳島の兵学者若山壮吉の又弟子にあたるのが勝海舟、板垣退助、坂本竜馬、中岡慎太郎、土方久元らの幕末・明治維新の英傑たちである。元禄期以前、赤穂藩でも山鹿流兵法の免許をうけた者が数名おり、その中の一人が大石内蔵助である。赤穂義士の討ち入りから引き揚げまでの作法も山鹿流兵法によるものであった》 山鹿素行は、十六歳から著述を始め、六十四歳で没するまでの間に、おびただしい数の書物を著している。孔子の教えを聖学とよび、学問は実学でなければならないと説いている。 そのうちの『山鹿語録』四十五巻中の『士道』篇に記されていることが興味深く、以下に現代語訳で紹介する。 《ますらおは、ただ今日一日の用を全うすることを極致とすべきである。一日を積んで一月になり、一月を積んで一年になり、一年を積んで十年とする。十年がかさなって百年になる。一日はなお遠く一時にあり、一時はなお長く一刻にあり、一刻もなお余りある一分にある。このことからいえば、千万年のつとめも一分より出て、一日のうちに究まるものである。だから一分の時間をゆるがせにすれば、ついに一日に至り、終わりには、一生の怠りともなる。天地の生々は一分の間もとどまることがなく、人間の血気呼吸も一分の間も止まることがない。だから、その一瞬を大切に生きるべきである》 《その志が正しい道に志すというものでなければ、まことの道に到達することはできない。だからこそ道に志すというのである。世馴れして物知り顔をする連中は、自己流の判断で道を定めて、そのほかの別の道はないと自分の意見にこだわると、まことの道から遠ざかって、ついには大道に入ることができない。武士の職分を知ったといっても、道に志すところがなく、また、知があっても正しい行ないが伴うのでなければ、万全とはいえない。これも最も詳しく究明しなければならないことである》 山鹿素行は、士の職分を自覚し、道につとめ励むことにより、農工商三民の師表となると言っている。つまり、士の道は人間の道ということである。また礼節を重んじ、主君への絶対忠節を説いている。 当時の封建制度の中での思想ゆえ、忠孝絶対視の感はいなめないが、その部分を除けば、現代にも通じる教えである。 山鹿素行について更に詳しく知るには、佐佐木杜太郎著『武士道は死んだか―山鹿素行武士道哲学の解説』(壮神社)をお薦めする。 読者諸兄はこのような先達の知を現代に生かし、文武を通じて己を磨き、人間の道を歩んで頂きたい。 最後に大山総裁のこの言葉で本稿を終える。 《千日をもって初心とし、万日をもって極めとす》 『ワールド空手』2000年10月号 &#160; &#160;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table cellspacing="12" cellpadding="1" width="90%">
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<tr>
<td colspan="3"><span style="color: #0c0471;"><a href="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/C12_thumb.jpg"><img class="alignright size-full wp-image-381" title="C12_thumb" src="http://kitensha.s356.xrea.com/wordpress/wp-content/uploads/C12_thumb.jpg" alt="" width="75" height="108" /></a>風間 健・著<br />
定価2,000円+税<br />
<a href="http://www.budoshop.co.jp/Sojinshatoppage.html" target="_blank">壮神社</a> (TEL:048-287-1588)</span>&nbsp;</p>
<p>《文と武について、世間では大きな考えちがいをしている。世間では歌を詠み詩をつくり、文筆が達者で気立てがやさしく優雅なのを文といい、武術、兵法を習い知って、気立ては勇猛でいかついのを武といいならわしている。似たことではあるが、似ていない。元来、文武というのは、一つの徳であって別々のものではない。天地の造物は一つの気であるのに陰陽の別があるように、人の感性は一つの徳で、その中に文武の区別があるのだから、武のない文は真実の文ではない。文を備えていない武も真実の武ではない。<span id="more-380"></span>(中略)<br />
だから、戈と止めるという二つの字をあわせて武の字をつくったのである。文道をおこなうための武道なので、武道の根は文である。武道の威力をもって治める文道だから、文道の根は武である。そのほかあらゆる面において、文武の二つは切り離すことができない。(後略)》<br />
これは江戸初期に活躍し、陽明学派の祖で近江聖人と呼ばれた中江藤樹の『文武問答』の一節を現代語訳したものである。<br />
文武両道の必然性を説いたものだが、これに関連して思い起されるのが、大山倍達極真会館総裁がかつて言われた言葉がある。<br />
それは「力なき正義」と「正義なき力」についてである。総裁は正義を貫くため、「力」を身につける必要性を痛感し、修行に励んだ。しかし、その過程で「正義」のない「力」は蛮勇に過ぎないということを悟ったのである。<br />
盧山初雄最高顧問もまた、その著書の中で《強さと優しさを持って世の中を歩くこと、これが本来の意味での武道だと思う》(『武道のススメ』)と語っている。<br />
今回紹介するこの書は、江戸と明治時代に活躍した先哲者、山鹿素行、中江藤樹、熊沢蕃山、貝原益軒、大道寺友山、井澤蟠龍子、力丸東山、斎藤拙堂、徳川斉昭、吉田松陰、上杉鷹山、山岡鉄舟、植村正久、新渡戸稲造らの武士道論を、その原文と現代語訳を併記し、現代の教育に生かそうという試みで記されたものである。<br />
著者は風間健(道隆)武心道道主。NHK朝の連続ドラマ「私の青空」に出演している筒井道隆の父親としても知られている風間道主は、少林寺拳法や空手を学び、キックボクシングなどのプロ格闘技でも活躍した後、現在武心道を提唱して斯界で意欲的に活動している。<br />
さて、本書で最も興味をそそられたのが山鹿素行の武士道論である。<br />
《江戸時代、武士道を政治哲学にまで高めて武士の教育をしたのが山鹿素行(1622～1685)である。<br />
山鹿素行は、九歳で林羅山の学問所に入ったが、すでに四書五経を読むことができた。そして十五歳の時には、師の許しをえて『大学』の講義を行なっている。(中略)<br />
兵学は秘して見せずという性格上、一般の学問のようには普及しなかったが、素行の兵学は各藩の兵学者にうけつがれ、幕末には幕府講武所師範にまで発展している。大道寺友山も弟子であるが、長州では吉田重矩から子孫の吉田松陰、乃木希典へとつながっている。幕府講武所師範窪田清音の教えをうけた徳島の兵学者若山壮吉の又弟子にあたるのが勝海舟、板垣退助、坂本竜馬、中岡慎太郎、土方久元らの幕末・明治維新の英傑たちである。元禄期以前、赤穂藩でも山鹿流兵法の免許をうけた者が数名おり、その中の一人が大石内蔵助である。赤穂義士の討ち入りから引き揚げまでの作法も山鹿流兵法によるものであった》<br />
山鹿素行は、十六歳から著述を始め、六十四歳で没するまでの間に、おびただしい数の書物を著している。孔子の教えを聖学とよび、学問は実学でなければならないと説いている。<br />
そのうちの『山鹿語録』四十五巻中の『士道』篇に記されていることが興味深く、以下に現代語訳で紹介する。<br />
《ますらおは、ただ今日一日の用を全うすることを極致とすべきである。一日を積んで一月になり、一月を積んで一年になり、一年を積んで十年とする。十年がかさなって百年になる。一日はなお遠く一時にあり、一時はなお長く一刻にあり、一刻もなお余りある一分にある。このことからいえば、千万年のつとめも一分より出て、一日のうちに究まるものである。だから一分の時間をゆるがせにすれば、ついに一日に至り、終わりには、一生の怠りともなる。天地の生々は一分の間もとどまることがなく、人間の血気呼吸も一分の間も止まることがない。だから、その一瞬を大切に生きるべきである》<br />
《その志が正しい道に志すというものでなければ、まことの道に到達することはできない。だからこそ道に志すというのである。世馴れして物知り顔をする連中は、自己流の判断で道を定めて、そのほかの別の道はないと自分の意見にこだわると、まことの道から遠ざかって、ついには大道に入ることができない。武士の職分を知ったといっても、道に志すところがなく、また、知があっても正しい行ないが伴うのでなければ、万全とはいえない。これも最も詳しく究明しなければならないことである》<br />
山鹿素行は、士の職分を自覚し、道につとめ励むことにより、農工商三民の師表となると言っている。つまり、士の道は人間の道ということである。また礼節を重んじ、主君への絶対忠節を説いている。<br />
当時の封建制度の中での思想ゆえ、忠孝絶対視の感はいなめないが、その部分を除けば、現代にも通じる教えである。<br />
山鹿素行について更に詳しく知るには、佐佐木杜太郎著『武士道は死んだか―山鹿素行武士道哲学の解説』(壮神社)をお薦めする。<br />
読者諸兄はこのような先達の知を現代に生かし、文武を通じて己を磨き、人間の道を歩んで頂きたい。<br />
最後に大山総裁のこの言葉で本稿を終える。<br />
《千日をもって初心とし、万日をもって極めとす》</td>
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