太気拳と意拳

拳聖・澤井健一先生が創始した[太気拳]。
その源流・王向齋先生の[意拳]が今、
中国武術界で新たな注目を集めている……。

意拳は本当に継承されているのか

「半歩あまねく天下を制す」と謳われた形意拳の達人・郭雲深先生の高弟・王向齋先生が意拳(大成拳)を創始し、その技と精神は中国全土に根付き、日本では澤井健一先生によって太気拳として継承されている。このことは武術家や武術愛好家に広く知られているが、その実態はあまり知られていない。
そこで今回、澤井健一先生の直弟子・久保勇人太氣拳協会会長兼総教練に現在の中国における実際を伺った。
久保勇人氏は19歳で太気拳に入門、澤井先生に直接指導を受け、最年少で免状(練士五段)を与えられた実力者で、中国の意拳と交流を深めながら日本国内で太気拳の普及・発展に寄与している。その実力は澤井先生の高弟・佐藤嘉道氏も高く評価しているほどである。

姚承光、承榮兄弟と意拳

王向齋先生の高弟・姚宗勲先生は澤井先生と最も仲のよかった実力者だった。現在、そのご子息で北京市武協宗勲武館館長・姚承光氏と北京市武協中意武館館長・姚承榮氏を始め、多くの実力者が意拳を継承し、後進の指導にあたっている。
久保氏は90年に初めて訪中し、中国意拳との友好関係を築き、92年には姚兄弟の来日実現に大いに寄与した。以降、日中の王向齋先生の孫弟子間の友好と武術の錬磨を続けている。
姚兄弟は幼い頃より父・姚宗勲先生に厳しく鍛えられ、意拳の神髄を体得している。
中国武術界では意拳の強さは群を抜いており、散手大会には意拳の選手は参加禁止になっていた。それは82年4月に北京で開催された「第1回全国散手大会」での出来事が原因となっている。
この大会に出場した姚承光氏は試合開始47秒、右パンチ一発で相手をKOした。すぐ救急車で病院に運ばれたが重傷だったという。
主催者は即座に意拳の他の選手も出場停止にし、以後意拳の散手大会への参加はご法度となったのである。

意拳組手大会

その強さゆえ大会出場の機会を奪われた意拳は、98年にようやく独自に大会を行うようになった。
北京市内北部にある奥林匹克(オリンピック)体育中心の中国武術研究院3階競技場で11月15日、非公開ながら300人の観衆を集め、「首届(第1回)北京意拳実戦交流観摩(競争)大会」を開催した。
最初に中国武術協会主席の李杰氏が挨拶に立ち、次いで澤井先生の兄弟弟子・張中市が挨拶を行い、香港意拳協会会長の霍震寰氏が開催宣言し、試合が開始された。
ルールは、ヒジ打ち、ヒザ蹴り禁止で、手による顔面攻撃を認めた(グローブを着用)フルコンタクトのワンマッチ制で、13試合が行われた。北京市武術運動協会意拳研究会が主催し、北京市の意拳6道場26選手が参加した。
この大会に招かれた久保氏は北京市武協宗勲武館のセコンドとして意拳最初の大会を見守った。
この大会で自信を深めた意拳協会は、本年3月21日に全国意拳組手大会を北京で開催し、5月22日には浙江省で世界大会を中国武術協会の主催で行うことを決定した。

姚宗勲先生の直弟子・崔瑞彬

姚兄弟とともに姚宗勲先生の薫陶を受けた武術家に崔瑞彬氏がいる。
49年生まれの崔氏は16歳から本格的に武術の修行を始めた。また、68年に意拳を学び始め、72年から姚宗勲先生に師事した。
当時北京から約50キロ離れた昌平県に住んでいた姚先生の下に毎週末北京から通い、姚承光氏と寝食をともにしながら意拳の教えを受けたという。さらに姚先生が亡くなる85年まで指示し、意拳の習得に努めている。
また、崔氏は西洋に意拳を広めるべく渡欧し、オランダのカレンバッハ氏やスウェーデンのマーシャル氏など、ヨーロッパの太気拳拳士との交流も行っている。
崔氏は95年11月、敷地約2000坪に屋内・屋外練習場、宿舎、食堂を完備した道場を北京東北部昌平県に開き、後進の指導にあたっている。
その崔氏が主宰する「国際意拳培訓中心」を姚承光氏と久保氏が本年2月4日に訪問し、旧交を暖めた。
以下、崔氏に姚宗勲先生の思い出を語っていただいた。

姚宗勲先生と意拳の神髄

「初めて姚宗勲先生にお会いした時、威圧感を感じるとともに、それまで出会った武術家とは比べものにならない程の衝撃を受けました」
姚先生の教え方は保守的で厳しかったが、開放的な面もあり、理論的で「理論的な原理を教えなければ弟子はそれ以上伸びない」というものだった。
また、崔氏は姚承光氏とともに毎晩稽古後に疲れきって寝ていたが、姚先生は真冬の厳寒の北京の朝でも4時頃には外で站椿(立禅)を組んでいたという、
「姚先生は手袋もせず立禅をしていて、真っ暗な中で目だけが光り輝いていたのが印象的でした」
姚先生は基本の鍛錬と他流派との交流・試合の重要性を説いていた。
「意拳の打ち方は奥が深い。(1)ゆっくり打つ打ち方と(2)速く打つ打ち方(3)ゆっくりでない打ち方と(4)速くない打ち方がある」
「最も大切なことは常に他流試合をすること、交流をすることだ」
姚先生が北京西部にある小花児園で教えていた頃、先生の名声を聞いた他流の人が常に訪れ、頻繁に試合が行われていた。
その時、崔氏と姚承光氏は必ず他流の人と試合をしていた。そのことで二人は技術的に著しく向上したのである。
「ある日、姚先生がいない時に他流の人が来て、承光氏と二人で代わる代わる試合をしました。結果は相手をKOしたのですが、その後に姚先生が見えて『私がいない時に他流試合をするな』と、激しく諌められました」
師がいない時の他流試合の危険性を諭された崔氏と姚承光氏は以後、一切他流試合を断ったという。

姚宗勲先生のエピソード

「80年代に入って姚先生に教えを乞うてフランス人が北京に来ました。その時、最初に站椿(立禅)を組まされ、意味が理解できないそのフランス人は、先生に『これは何のためにやるのですか』と聞きました。その質問に先生はその人の手に触れると、一瞬の内に素っ飛ばしました。以後、その人は二度と質問をしませんでした」
また、姚先生はこんなエピソードも残している。
「上海に住んでいる形意拳の王壮飛という人が『王向齋の功夫は大したことはない。私に会う時、彼は常に低姿勢だった』と言っているのを伝え聞いた姚先生は81年に私(崔氏)を伴って上海へ試合に行きました。しかし、王壮飛は逃亡して会食にすら出席しませんでした」
その時に姚先生の兄弟弟子で有名な上海の武術家・張長信先生の紹介で上海武術協会主席・蔡龍雲先生との交流を深めた。

澤井健一先生との友情

澤井健一先生が中国で王向齋先生の下で意拳の教えを受けていた頃、姚宗勲先生の家に寝泊まりをして一緒に稽古をしていた。
「澤井先生は精神力がずば抜けていた」と姚先生は常々語っていた。
また、澤井先生は酒が強かった。
「今日は何本飲もうと決めたら、その本数を飲み干すまで二人とも決して帰らなかった」
しかし、前夜どんなに深酒をしても翌朝の稽古を二人は欠かさなかったという。

太気拳と意拳の未来

王向齋先生が創始した意拳(大成拳)は中国本土では弟子の姚宗勲先生たちに受けつがれ、その弟子・姚承光氏や崔瑞彬氏らの孫弟子へ、そして多くの曾孫弟子へと伝承されようとしている。
日本では澤井健一先生が柔道、剣道などの日本武術の長所を取り入れ、太気拳として開花した。その技術と精神は佐藤嘉道氏や久保勇人氏らに受け継がれ、またその弟子たちへと続いていくだろう。
ヨーロッパでは澤井先生の弟子・カレンバッハ氏やマーシャル氏を中心に太気拳、意拳が研究されている。
さらに中国では、本年中に香港意拳協会会長の霍震寰氏を中心に崔瑞彬氏や姚承光氏らが中国意拳協会を設立し、意拳を世界に広める作業に着手した。
久保勇人氏は中国の意拳と交流を深めつつ、太気拳を日本中に根付かせるため、各地に支部を開設せんとしている。
太気拳と意拳の未来は明るい。拳聖・澤井健一先生は、この日中の王向齋先生の孫弟子たちの活躍に、草葉の陰できっと、あの笑顔を見せているに違いない。

『フルコンタクトKARATE』1999年5月号

【太気拳関連書】
『実戦中国拳法太気拳』澤井健一著/発行=日貿出版社
『拳聖澤井健一先生』佐藤嘉道著/発行=気天舎
『空手とは何か』盧山初雄著/発行=気天舎
『実戦拳法太氣拳』久保勇人著/発行=ベースボール・マガジン社

 

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