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エッセイ&推薦本 ― その1

バンコク・自分探しのリング 文/高田 有正
〜ムエタイを選んだ5人の日本人〜

バンコク・自分探しのリング

「生きる手触り」をムエタイのリングに求めて
単身バンコクに渡った5人の若者たち。
そこで見つけたものは……。



 《ムエタイの世界に生きる日本人。
 私は、このテーマを携えタイに向かった。
 ただ、格闘技に興味がなかった私にとって、ムエタイの役割は、単なる入り口に過ぎなかった。
 私が肉薄したかったのは、内なる自己と闘い、つまずき、立ち上がり、時に迷い、そして乗り越えてゆく人たちの生き方だった。ムエタイの門を叩けば、そんな人たちと会えると夢想していた。》
 この文は吉川秀樹著『バンコク・自分さがしのリング』の冒頭に書かれているものである。
 私がこの本に出会ったのが12月初旬、発行元の「めこん」という出版社だった。本といってもまだゲラの段階だったが、添えられた写真を見ながら郷愁に似た感情を抱いた。
 ムエタイのジムで汗を流す姿、リングに寝転び寛ぐ若者、ルンピニーとラジャダムナン・スタジアム、バンコクの街……。それは私にとって初めて見る写真であるにもかかわらず、懐かしさとほろ苦さを感じさせるものだった。
 ゲラを読み進むうちにその感覚と匂いが私を包み込んでいった。十数年、ムエタイや武術に深くかかわっていた私の過去に由来するものだけではなく、過ぎ去った青春時代のあの感覚が甦ったからである。
 廣田中、吉野裕和、伊東綾子、山田秀行、鈴木秀樹、この5人の若者を同世代の著者、吉川秀樹が追った「自分さがしのリング」の一部を紹介しよう。

孤独を求める

 家族の猛反対を押し切り、廣田中(あたる)は日本を発った。19歳の秋だった。
 タイの南部、ホアヒンにきれいなジムがあるという資料だけを頼りに異国の地に踏み入った。
 高校時代、衛星放送でリングスの試合が放映されており、その団体のスタイルに魅入られた廣田。
 次第にテレビを見ているだけでは飽き足りなくなってきた。しかし身長170センチそこそこの彼にとってリングス入門は難しかった。
 ムエタイを知ると同時にキックボクシングという格闘技が日本にあることを知った。階級制がしかれたこの競技なら自分にもできる、と考えるようになった。それが高校3年生の夏には固い決意になっていた。
 廣田は大学に入るとすぐにキックボクシングを始めた。最初は大学の近くにある埼玉のジムに行ったが、ろくに技術を教えてくれない。そこで東京の有名なジムに通った。
 しかし、ここもいい加減な所だった。このジムがこの程度なら、日本に強くなる道がない。もうタイに行くしかない。
 かくして1993年10月、廣田はタイに渡った。
 ホアヒンの駅前で拾った自転車タクシーはボロボロのジムの前で停まった。日本を離れて24時間後、ムエタイ一色の生活がスタートしたのである。
 10日後にはデビュー戦を3ラウンドKOで飾り、以後3カ月間で9戦という凄まじい勢いで試合をこなした。戦績は8勝1敗だった。
 このようにして始まった廣田の選手生活が4年目に入る頃、吉川は廣田に出会った。
 吉川はムエタイの世界に身を置く日本人に会いたいと思いタイに行った。しかしムエタイの知識はあまりなく、ムエタイ関係の知り合いも皆無だった。
 バンコクに着いた翌日、吉川はラジャダムナン・スタジアムに向かった。そこで運よく日本人が戦っている試合を観戦できた。
 しかもその試合の3日後、市内でその彼にばったり出くわしたのである。それから廣田と吉川の旅が始まった。
 当時、廣田は既にホアヒンからバンコクのジムに移り、3日前の試合が28戦目だった。しかし、その1年後、彼はタイ東北部のウボンラーチャタニーのジムに移った。
 27戦目までは勝率7割の彼はその後の1年間の戦績が7戦1勝6敗という惨めなものだった。そこで自分を追い込むため田舎のジムに移ることにしたのだった。
 ウボンで1戦した後、彼は再びバンコクに戻った。ウボン戦を含むそれ以降の戦績は8戦4勝4敗。
 廣田中の旅はまだまだ続く……。

強くなりたい

 伊東綾子が初めてムエタイに出会ったのは1997年1月、パックツアーでタイに行った時だった。
 何気なく見に行ったルンピニー・スタジアムでものすごい衝撃を受けた。ムエタイに魅入られたのである。
 その年のうちに彼女は単身タイに渡り、ムエタイのジムに入門していた。
 彼女が大学に入学する直前に両親が離婚。大学2年で中退し、就職。その3年後の決断だった。
 「一人で生きられる人間になりたいんですよ。強い個体になりたいんですよ。生命力とか、腕力とか、頭脳も、心も。総合的に強くなりたいんですよ」
 それが彼女のムエタイに傾倒していったきっかけだった。
 中学の終わり頃から家族がバラバラだった彼女にとって、忘れていたものに近い状態がムエタイのジムにはあった。
 「日本では疲れてる。鎧着ちゃってるから。今は全然カッコつける必要がない。何も持っていない。服なんかもほとんど持ってきてないし、お金も少ししかない」
 今は日本に帰ってきているという彼女。自分は見つかったのだろうか。ただ言えることは、流した汗と涙は経験として確実に自分の内に蓄積している、と。

終わらない

 真夏のクリスマスを直前に控えた土曜日、バンコク・伊勢丹6階にある紀伊國屋書店で吉川秀樹と鈴木秀樹は待ち合わせた。前者は無名のライターであり、後者はキックボクサーでリングネームを伊達(だて)秀騎という。
 この二人のヒデキが出会い、この物語の第五幕が始まる。
 伊達がキックボクシングを始めたのは高校1年生の時。格闘技に憧れるきっかけは五歳上の兄がブルース・リーが好きで、その影響を受けて育ったからだ。
 当初はキックの世界で生きていこうなどとは思っていなかったが、1年後のデビュー戦が近付くにつれのめり込んでいった。
 その後、仙台から東京に移りリングに立つが、戦績はぱっとしなかった。また、試合前に仕事を休んだり、タイへの渡航を重ねる度に借金は膨らんだ。
 タイトルマッチの前哨戦、伊達は26歳になっていた。結果は1ラウンドKO負け。
 もう限界だった。だが、このままじゃ終われない。
 何度もキックボクシングに見切りを付けようとしたが、忘れることができなかった。そんな中でタイに生活の場を移そうと決意した。
 彼はこのムエタイの国で“伊達”にふさわしい死に場所を見つけ、殺し、その上で“鈴木”のスタートを切ろうとしたのだ……。

 5人の若者と同世代の著者、それぞれの希望と不安、怒り、戸惑い、自身と闘いながら歩む姿に己の青春を重ね合わせて想う。
 ムエタイという特異な世界で積み重ねた青春の一頁を、その体験を、彼らはどう消化していくのだろうか。甘酸っぱい感覚が今も離れない。
 その体験は決して無駄にはならない。己の汗と血と涙を信じて生きてほしい。きっと「生きる手触り」は感じてきたはずだから。
『フルコンタクトKARATE』1999年3月号

『バンコク・自分さがしのリング』
吉川秀樹・著
定価1,500円+税
発行=めこん(TEL:03-3815-1688)


バックナンバー

(1)バンコク・自分探しのリング
(2)太気拳と意拳
(3)レジェンド
(4)太気拳
(5)バイタル柔道[投技編/寝技編]
(6)肥田式簡易強健術
(7)実戦中国拳法・太気拳
(8)一瞬の夏

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